第4章 それならとことん悪辣に
実の娘にそう言われ、雪乃は一瞬きょとんとして――次の瞬間、ふっと笑い声を漏らした。そこに温度など欠片もない。
視線が、萌花の青白い小さな顔をなぞり、今野優空の強張った横顔へ移り、最後にベッドでか弱いふりをする中島晴美に据わる。瞳の奥に残っていた最後の熱が、すうっと消えた。
「私が悪毒、ですって?」
淡々とした声が、かえって怖い。
「なら今日は、とことん悪毒になってみせる。あなたたちに、ちゃんと見せてあげる」
今野優空はその様子に胸の底が沈み、理由も分からない苛立ちがこみ上げた。眉を寄せる。
「雪乃……今度は何を企んでる」
「企む? まさか。私にそんな度胸、あると思う?」
雪乃は口元だけで笑い、まっすぐに今野優空を射抜く。
「さっき出した条件。どうするの。夫婦共有財産の半分、離婚。それと、コンサートの枠は中島晴美に譲る。引き換え。現金と権利、同時に。公平でしょ」
分かっている。今野優空は商人だ。何をするにも損得を天秤にかける。中島晴美の「余命三か月」は彼にとって大事だろう。でも――財産の半分となれば、話は別のはず。
今野優空の顔色が沈む。ベッドの中島晴美を見て、胸を締めつける「あと三か月」という現実を思い出し、揺れた気持ちは、結局“罪悪感”に押し潰された。
歯を食いしばり、吐き捨てるように言う。
「……分かった。条件をのむ」
その瞬間、中島晴美の瞳に、ほんの一瞬だけ得意げな光が走った。けれどすぐに不安げな表情を作り、か細い声を重ねる。
「優空……そこまでしなくても……。コンサートの枠だって、そんな大事じゃ――」
「いい」
今野優空が遮る。雪乃が一度も受け取ったことのない、やわらかな声色で。
「君が喜ぶなら、それでいい」
雪乃はそのやり取りを眺めながら、胸は不思議なほど凪いでいた。悲しいより、解放感。五年の結婚。八年の恋。結局、犬にでもくれてやったみたいなものだ。
「口約束じゃ足りない。契約書、書きましょう」
雪乃は冷たく言い切る。
「招待状は今すぐ渡せる。でも、離婚協議書と財産分与の合意書は、今この場でサインして」
今野優空は迷わなかった。すぐに手配を入れる。病院の近くに法律事務所があり、三十分もしないうちに弁護士が書類一式を持って現れた。
雪乃はペンを取る。条項に目すら落とさず、署名欄へさらりと名前を書いた。迷いも、躊躇もない筆致。
――この一筆で。
今野優空とも、この家とも、もう無関係。
これからは、自分のために生きるだけ。
今野優空は雪乃の潔さに、胸の奥が妙に詰まった。それでも顔を固くして署名する。
雪乃は鞄から鈴木さんのコンサートの招待状を取り出すと、中島晴美のベッド脇へ放り投げた。まるで、どうでもいいゴミでも捨てるみたいに。
「枠、あげる。ちゃんと受け止められるといいわね」
そう言い残し、踵を返す。今野優空も萌花も見ない。得意げに笑う中島晴美も見ない。
病室を出た瞬間、雪乃は深く息を吸った。胸を圧していたものが半分ほどほどけ、足取りまで軽くなる。千斤の重荷を下ろしたように。
病室では、中島晴美が招待状を拾い上げ、隠しきれない笑みを口元に浮かべた。今野優空の肩にもたれ、弱々しく囁く。
「優空、ありがとう。でも……雪乃さん、あのまま帰っちゃって大丈夫かな。まだ熱があるんでしょう……」
口では心配を装いながら、胸の中では算段を弾く。自分が“優しくて大きい女”に見える。ついでに優空が雪乃を追えば、なお良い。優しくて大きい女――その評価は全部、自分のもの。
萌花も今野優空の袖を小さく引いた。
「パパ……ママ、まだ熱あるのに、ひとりで行っちゃった。大丈夫かな……」
不安はある。さっき「悪毒」だなんて言った自分の言葉が、胸のどこかに引っかかる。それでも、萌花は優しい晴美おばさんのほうが好きだ。だから、ただ小さく言うだけ。
今野優空は雪乃の消えた方角を見つめ、苛立ちが増していく。今日の雪乃は、あまりにもおかしい。あんなふうに断ち切れる女じゃないはずだ。
「……様子を見てくる」
立ち上がり、追いかける。自分でも理由は分からない。得体の知れない何かが胸の奥を掻き立てる。あるいは、本当に何かあったら――そんな不吉な想像がよぎったのか。
中島晴美はその背中を見送り、目の奥の得意をさらに濃くした。萌花の頭をそっと撫でる。
「萌花、いい子ね。心配しなくて大丈夫。パパがママを連れ戻してくれるから。私はここで萌花と一緒にいるね」
雪乃がいなくなってもどうってことない。優空の心は自分にある。萌花も、こっち側。戻ってきたところで、波風なんて立てられない。
雪乃が病院の外へ出ると、風が頬を切った。ぞくり、と肩が震える。熱は引いていない。頭はぼんやり、足元もふらつく。
街路樹に手をつき、息を整える。まずは泊まれる場所。そこから、やり直す。弾く。作る。もう誰かの周りを回る人生は終わり。
そのとき、一台の車が横づけで止まった。窓がすっと下り、端正な顔が覗く。心配そうな目。
「先輩? どうしてここに……顔色、めちゃくちゃ悪いですけど」
林谷健介。大学時代の後輩で、鈴木さんの生徒。二つ下。昔から付き合いは良かった。
雪乃は目を瞬き、思わず声が出た。
「健介……? なんでここに」
「友だちの見舞いで。たまたま見かけて」
林谷健介は車を降り、雪乃が木に寄りかかっているのを見るや、すぐに肩を支えた。
「先輩、しんどいでしょ。熱ですか」
額に触れた指が、熱さに眉をひそめる。
「熱、これヤバいですよ。なんでひとりなんですか。乗って。病院――」
「いい。今、病院から出たばかりだから……ただ、ちょっとふらつくだけ」
「ふらつくだけ、の熱じゃない」
林谷健介は有無を言わせず雪乃を車へ誘導する。
「俺んち近いんで、まず休んで薬飲みましょう。このまま放っておいたら倒れます」
まっすぐで、裏のない気遣い。その温度に、雪乃の胸の奥がわずかにほどけた。最近、こんなふうに“本当に心配される”ことがなかった。
逆らいきれず乗り込むと、林谷健介はシートベルトを締め、車内温度を調整し、助手席からぬるめの水を差し出した。
「先輩、これ。まず水飲んで」
――その瞬間。
外へ出てきた今野優空と中島晴美が、その光景を目にする。
中島晴美の目が、見る見る赤く染まった。今野優空の腕に縋り、泣き声まじりに訴える。
「優空、見て……雪乃さん、ひどい。さっき離婚の話をしたばかりなのに、もう別の男と……あんなに楽しそうに。優空のことも、この家のことも、何とも思ってないんだよ……」
わざと声を張り、信じられないという顔を作る。心の中では小躍りしていた。これで優空は雪乃をもっと嫌う。
今野優空の視線が、雪乃と林谷健介に刺さる。肩を支える手。雪乃の顔に浮かんだ、かすかな柔らかさ。それが火種になった。
胸の奥で、熱いものが一気に噴き上がる。嫉妬と怒りが絡まり、理性が切れる。
大股で近づき、勢いよくドアを引き開けた。
「雪乃――お前、いい根性してるな」
怒気を孕んだ目で睨みつける。
「離婚にサインした途端、男に乗り換えか? そんなに急いでたのかよ!」
雪乃は今野優空と中島晴美を見た瞬間、顔から柔らかさが消えた。残ったのは氷みたいな冷たさと、薄い嘲り。
今野優空の手を払いのけ、車から降りる。視線が中島晴美の“可哀想な顔”を一瞥し、今野優空の怒りに満ちた表情へ戻る――滑稽で仕方がない。
「男に乗り換え?」
雪乃は笑った。
「今野優空、目、見えてる? この人は林谷健介。私の後輩。何年の付き合いだと思ってるの。あなたより長い」
そして中島晴美に向け、嘲笑を深くする。
「それより、中島晴美。私と今野優空、まだ離婚は成立してないのに、あなたは毎日べったり張りついて、そばにいて、娘を手懐けて――それは何?」
言葉が、刃みたいに落ちる。
「浮気相手、ってやつ?」
