第5章 平手打ち
中島晴美はその言葉で急所を突かれたのか、顔色がさっと青ざめた。瞳がみるみる赤くなり、大粒の涙が頬を伝って落ちる。肩先まで小刻みに震えていて、見ているだけで哀れを誘う。
彼女は今野優空の腕にしがみつき、指先が白くなるほど力を込めたまま、嗚咽混じりに訴えた。
「優空、違う……私、そんな……浮気相手になろうなんて、考えたこともない。私はただ、あなたのことを友達だって……」
声はだんだん細くなり、最後は泣き声に溶けた。俯いたまま、世界中からいじめられたみたいな顔。
ただでさえ雪乃の言葉で頭に血がのぼっていた今野優空は、その姿を見て怒りがさらに燃え上がる。雪乃を睨みつけ、氷みたいに冷たい声を落とした。
「雪乃、いい加減にしろ。晴美に謝れ」
その一言が、雪乃には冗談にしか聞こえなかった。眉を上げ、優空を見上げる。口元に浮かんだのは、嘲るような笑み。
――ここまで来ても、まだこの女を庇うんだ。
夫婦としての五年。八年という時間。結局、あの“初恋”の涙ひと粒にすら勝てない。
「謝る?」雪乃は鼻で笑った。「なんで私が。事実を言っただけでしょう。……それとも、痛いところ突いちゃった?」
吐き捨てると、雪乃は隣の林谷健介へ視線を移した。嘲笑はすっと消え、残ったのは淡い疲労だけ。声も低くなる。
「健介、行こう」
林谷健介は、優空が浮気相手を守るような態度を取るたび、ずっと胸の奥がざらついていた。雪乃の言葉にすぐ頷き、彼女の腕を支える。冷えた目で今野優空を一瞥すると、そのまま車へ向かって歩き出した。
今野優空が追いかけようとした瞬間、中島晴美が涙で濡れた手で彼を引き止めた。
「優空、追わないで……雪乃さん、今は怒ってるだけ。少し落ち着かせてあげて。私は大丈夫、本当に……」
大丈夫と言いながら、手はさらに強く絡みつき、優空を一歩も動かさない。胸の内では、雪乃が去ったことで優空の気持ちがもっと自分に傾くのを、甘く味わっていた。
雪乃と林谷健介の車がゆっくりと遠ざかるのを見送って、今野優空は胸の奥が詰まるように重くなる。行き場のない苛立ちが渦を巻き、顔色はどす黒く沈んだ。
少し離れたところで萌花が、それを最初から最後まで見ていた。小さな頭の中は「浮気相手」という言葉でいっぱいだ。意味が分からない。
萌花は優空の服の裾をちょんちょんと引き、きょとんとした顔で尋ねた。
「パパ、浮気相手ってなに? 晴美おばさん、浮気相手なの?」
幼い声が、病院の静かな入口に不自然に響く。
ただでさえ心が荒れていた優空は、その一言で堪えきれなくなった。萌花を見下ろし、声を荒げる。
「勝手なこと言うな! 晴美は浮気相手じゃない! 二度とその言葉を口にするな!」
萌花にこんなふうに怒鳴ったことは一度もない。鋭い叱責に、萌花の身体がびくりと止まる。
次の瞬間、萌花の目に涙が溜まり、大粒の雫がぽろぽろと落ちた。唇をきゅっと尖らせ、悔しそうに言う。
「パパ、怒った……ママは、私に怒らないのに……」
そう言うなり、顔を手で覆って泣きじゃくった。ひくひくと肩を震わせ、息が詰まるほど泣く姿が痛々しい。
優空はその様子に胸が緩み、手を伸ばして宥めたくなる。けれど意地が邪魔をして動けない。立ち尽くしたまま、表情だけがさらに険しくなる。
そこへ中島晴美が素早く寄り、萌花を抱き寄せた。背中をとんとんと撫で、やわらかな声で諭す。
「萌花、泣かないで。パパは萌花に意地悪したいわけじゃないの。ちょっと気持ちが荒れてただけ。ね、責めないであげよう?」
彼女は言いながら優空へ視線を投げる。責めるような、しかしどこか“理解ある大人”を演じた目。
そして萌花の涙を指先で拭い、さらに優しい声で続けた。
「萌花、いい子ね。おばさんは浮気相手じゃないよ。おばさんはパパの……お友達。萌花のそばにいたいだけ。だからね、そのことはもう聞かないで。約束、できる?」
萌花は晴美の胸に頬を埋め、優空の厳しさと比べてしまう分、余計に切なさが募る。それでも小さく頷き、しゃくり上げながら答えた。
「うん……晴美おばさん。もう聞かない……」
心の中で思う。晴美おばさんは優しい。怒らない。
パパはひどい。ママもひどい。自分に一番優しいのは、晴美おばさんだけ。
中島晴美はその依存の仕草を見て、唇の端をほんのわずかに持ち上げた。誰にも気づかれない程度の、薄い笑み。――これで萌花も、完全にこちら側。
今野優空はその光景を見て、胸の詰まりがさらに強くなる。何かが歪んでいる気がするのに、どこがどうとは言えない。苛立って眉間を揉みながら、ふと雪乃の、さっきの決然とした背中が脳裏に蘇った。
胸の奥が、嫌にざわつく。
一方、雪乃は林谷健介の車の助手席でシートに凭れ、目を閉じていた。心の中がぐちゃぐちゃで、味のしないものを噛み続けているみたいだ。
さっきの、娘の無邪気な質問。
今野優空の、あの容赦のない叱責。
それは針のように、雪乃の心臓を何度も刺した。半分命を削って産んだ娘が、いつの間にか“誰かの子”になっている。別の女に甘え、自分には嫌悪ばかりを向ける。
五年の献身なんて、結局は笑い話。
そう思うほど胸が締めつけられ、息が詰まる。頭もぼうっと霞み、熱はまだ引いていないのに、追い打ちの刺激で身体が限界を訴えた。
視界がすうっと黒く落ちる。力が抜け、雪乃の身体が横へ崩れた。
運転席の林谷健介が、横目でその異変を捉える。顔色を変え、急いで手を伸ばした。
「先輩! 大丈夫ですか」
その瞬間、車のドアが乱暴に引き開けられた。大きな手が差し込まれ、健介より先に雪乃の腰を抱きとめ、ぐっと引き寄せる。
温かい腕の中。鼻先をかすめた、嫌というほど馴染んだ匂い。
雪乃は眉をひそめ、重い瞼を開く。目の前にあったのは、今野優空の陰った顔だった。
――なんで、ここに。
胸の奥で感情が渦を巻く。悔しさ、屈辱、怒り、そして自分でも名づけられない何か。だがその全部が、彼の顔を見た途端、ただの激しい嫌悪と怒気に変わった。
どうしてこんな男を愛したのか。
自分勝手で、冷たくて、見たいものしか見ない。浮気相手を庇い、妻と娘を踏みにじる男。
腹の底から黒い火が噴き上がる。雪乃は考えるより先に手を上げた。
ぱちん、と乾いた音。
雪乃の平手が、今野優空の頬を容赦なく打ち据えた。
