第6章 ママ、会いたいよ
パァン、と乾いた音が弾け、そこにいた全員が一瞬なにが起きたのか分からなくなった。
今野優空は顔を横に向けたまま、頬にじりじりと焼けるような痛みを感じる。信じられない、という目で雪乃を見た。
この女は、付き合い始めてからずっと――やさしくて、従順で。
殴るどころか、声を荒らげたことすら一度もない。
それなのに今、雪乃は車のそばに立ち、手を高く上げたまま、濃い嫌悪を宿した目で彼を見下ろしていた。
「……頭、おかしくなったのか」
今野優空の声は低く、怒りが今にも溢れそうだった。
雪乃は氷みたいな目で、ゆっくりと手を引っ込める。
そして――汚いものに触れたみたいに、手の甲を強くこすった。
さらに、こすった紙を今野優空の目の前で地面へ放り捨てる。
その仕草が、平手打ちよりも痛烈に目を刺した。呼吸が、ひゅっと詰まる。
「雪乃!」
一言一言、噛み砕く勢いで吐き捨てる。
「他人のために、俺に手を上げるのか」
「他人?」
雪乃は車のドアに手をつきながら、まだ残る眩暈を堪えて鼻で笑った。
「今野優空。中島晴美と抱き合ってたときは、彼女が他人だって思った?」
今野優空は唇を引き結ぶ。
「それとは違う。晴美は、あと三か月――」
「またそれ」
雪乃は、笑った。乾いた、ひどく冷たい笑い。
「あと三か月だから、世界中が道を譲る。あと三か月だから、私を置き去りにできる。あと三か月だから、あなたの娘がアレルギーで死にかけても、何にアレルギーかも知らない。知ってるのは『中島晴美が食べさせた』ってことだけ」
雪乃は深く息を吸い、まっすぐ今野優空を射抜く。
「じゃあ、私は? 結婚して五年。子どもを産んで、家のこと全部回して。私が差し出した五年って、あなたの中でいくらの価値があるの」
今野優空は言葉を喉に詰まらせた。返せない。返しようがない。
「さっき、健介はちょっと支えてくれただけ。それだけで追いかけてきて、発狂みたいに騒いで」
風に乱れた前髪が頬に張りつく。雪乃の目の奥には、積もり積もった悔しさが渦を巻いていた。
もう、我慢しない。吐き出す。全部。
「私が高熱で倒れてたとき、あなたはどこにいたの」
息を切り、言葉を噛みしめる。
「電話、十二回。一本も出なかった。あのとき、何してたの」
雪乃は一拍置き、髪を耳にかけた。独り言みたいに続ける。
「中島晴美のそばにいた。ひとりが怖いって言うから。……じゃあ私は? 私はひとりで病院で点滴。吊り瓶すら見てくれる人がいなかった」
夜風が頬を撫でる。今野優空は思わず目を細めた。
目の前の女が、もう知っている雪乃には見えない。
「健介は私の後輩よ。通りすがりの人だって、病人がふらふら立ってたら手を貸す。それがあなたの目には不品行で、男漁りに見えるのね」
雪乃は今野優空を見つめた。かつて光っていた瞳は、もう消えている。
「じゃあ、あなたと中島晴美は? あなたたちがしてることは、何なの」
「詭弁はやめろ」
今野優空の顔色は、さらに沈んだ。
「晴美は体が弱い。俺は世話をしてるだけだ」
「世話」
雪乃はその言葉を口の中で転がし、嘲るように息を漏らす。
「今野優空。あなたが言う『世話』で、私より度を越してないものって何かある?」
一歩、後ろへ。
彼との距離を、はっきりと引き離す。
「汚れたものは、いらない」
今野優空の瞳孔が、わずかに揺れた。怒りに混じって、ぞくりとした焦りが染み込む。
――汚れた、だと?
その瞬間ようやく見えた。雪乃の目に浮かぶのは、ただの嫌悪。
意地でも、強がりでもない。本気で、彼を汚いと思っている。
今野優空は眉を寄せた。自分に非はないはずだ。
「俺たちはただの友達だ。汚い発想で決めつけるな」
林谷健介が一歩前へ出て、さりげなく体を傾け、雪乃を背にかばう。
今野優空は林谷健介を見た。若く端正な男。こちらに向ける敵意を隠そうともしない。
「今野さん」
林谷健介は淡々と告げる。卑屈でも挑発でもない、ただ真っ直ぐな声。
「先輩は休むべきです。どいてください。もうすぐ元夫になる人なら、そのくらいの自覚は持ったほうがいい」
今野優空は動かない。視線は林谷健介を越え、その背後の雪乃へ。
「その言葉はお前に返す。まだ離婚は成立してない。余計な口を挟むな」
そして、硬い声で命じた。
「……帰るぞ。話なら家で――」
「家?」
雪乃は腕を抱いた。
「今野優空、忘れたの? 私たち、離婚するの。もう『家』なんてない」
今野優空の体が、固まった。
数時間前。病室で、彼は離婚に同意した。
あのときは、雪乃が拗ねているだけだと思っていた。
サインしてもどうせ同じだ。行く場所がない。遅かれ早かれ戻ってくる。
晴美の件さえ片づけば、あとで適当に宥めればいい――そう考えていた。
だが今、胸の奥に、根拠のない不安が生まれていた。
雪乃は男の複雑な視線を無視し、そのまま助手席へ向かう。
屈んで乗り込もうとした、その一瞬。
雪乃は振り返り、窓ガラス越しに告げた。
「今野優空。契約書はもうサインした。忘れずに市役所で手続きして」
声音は冷めきっている。
「私ももう、あなたに縋らない。これからは、あなたたち家族三人で、好きに生きればいい」
言い終えると、雪乃は車内へ滑り込み、ドアをバンと閉めた。
林谷健介は発進する前に、車の窓から今野優空を一瞥した。
鼻で笑うように眉を吊り上げる。
今野優空は冷たく睨み返し、拳を握りしめたまま、その場に立ち尽くす。
耳の奥で、雪乃の声だけが何度も反響した。
――今までは、待っていたのに。
どれだけ遅くても。連絡がなくても。
深夜に残業から帰れば、リビングには必ず灯りが一つ。
半月出張して、連絡ひとつしなくても、女は文句を言わなかった。怒った顔すら見せなかった。
ずっと、そうだと思っていた。
今野優空はこめかみを押さえる。ずきずきと頭痛がした。
思い出すのは、雪乃が去り際に向けてきた視線。
あれは、もう――光がない。
「中島さんが、いつ戻られるのかって」
看護師が追いかけてきて、恐る恐る尋ねた。
今野優空は我に返り、踵を返して病室へ戻る。
自分は間違っていない。
雪乃のほうが、きっと後悔する――そう信じ込もうとしていた。
病室の中。
中島晴美はベッドの背に寄りかかり、顔は涙で濡れている。机の上には、ぐしゃぐしゃに濡れたティッシュの山。
雪乃が、憎くてたまらない。
今野優空が入ってきた気配に、彼女は耳をぴくりと動かし、すすり泣きをさらに大きくした。
「優空……雪乃さん、優空にひどいことしてない? 私のせいだよね……私が悪いの。優空を困らせて……」
女は金の切れ目がないみたいに涙を流し続ける。
今野優空は何も言わず、ベッド脇に腰を下ろした。
中島晴美は彼の顔色を窺い、今は機嫌がよくないと察する。赤く腫れた目で見上げた。
手を伸ばして今野優空の手を握りたい。
けれど、この男が触れられるのを好まないことを思い出し、指先を引っ込めた。
一方、ソファでは萌花が膝を抱え、委屈そうに中島晴美の泣き続ける姿を見つめていた。
さっき今野優空が入ってくる前、萌花のお腹はぐぅぐぅと鳴った。
萌花はベッドのそばまで行き、小さな声で言う。
「晴美おばさん……お腹すいた」
もう一度。今度は袖をちょこんと引いた。
「晴美おばさん、ごはん食べたい……」
中島晴美は見向きもしない。袖を払うように引き、泣き声で萌花の訴えを覆い隠した。
萌花は少し待った。聞こえなかったのかと思い、また繰り返す。
「すごくお腹すいたの。泣かないで……一緒にごはん、食べよう……?」
それでも、返事はない。
耳元にまとわりつくのは、中島晴美の甘ったるい泣き声ばかり。
空腹で気持ち悪くなって、胸の奥がきゅっと縮む。
萌花の目から、ぽろぽろと涙が落ちた。
「ママ……どこ……会いたいよ……」
