第7章 雪乃、何の気が狂ったのか
萌花は胸の奥がむずむずして、昔――自分が病気になった日のことを思い出した。
母はいつも、一晩中まばたきひとつせずに付き添ってくれた。
空腹だと訴えれば、どれだけ遅い時間でも雪乃は台所に立ち、萌花のいちばん好きなお粥を炊いた。熱いのが怖くないように、ひとさじずつ「ふーっ」と冷ましてから口へ運んでくれる。
髪を撫でて、額にキスを落として、腕の中に抱きしめて。
「萌花、いい子。ママはここにいるよ」
萌花は唇をきゅっと噛む。目の縁が、さらに赤くなった。
そして――夜明け前。
眠り込んでいた今野優空は、ドンドンと扉を叩く激しい音で叩き起こされた。
「若様! お嬢様が熱を……!」
使用人の佐藤の声が上ずり、半ば泣きそうな勢いで呼びかけてくる。
優空はベッドの上で身を起こしたものの、頭がずしりと重い。今夜は寝室に戻らなかった。部屋ががらんとしていて、雪乃の気配がない場所に足を踏み入れる気になれなかったのだ。
扉を開けると、パジャマ姿の佐藤が廊下で落ち着きなく手をこすっていた。
「どうした」
「夜中に気持ち悪いって言い出して……触ったら、熱くて! 39度あります!」
優空は足早に子ども部屋へ向かう。
ベッドの上で、萌花が小さく丸まっていた。頬は真っ赤、唇は乾いて皮がめくれかけている。半分開いた瞳で、うわ言みたいに繰り返した。
「ママ……ママ……」
優空が額に手を当てた瞬間、ぞくりとした。熱が指先に刺さるほどだ。
「医者に電話しろ」
「もう呼びました。加藤先生、向かってます」
佐藤は続けて言いかけ、口をつぐむ。「若様……奥様にも、お電話を……」
優空の動きが止まる。冷えた目で佐藤を見た。
佐藤は慌てて言い添えた。
「お嬢様のお薬、全部奥様が管理なさってました。先生が来るまで待てないかもしれません」
優空は反射的にスマホを取り出し、画面の上で指が迷う。
かけるべきだ。萌花のために。
けれど、どうしても押せなかった。
昼間の雪乃の言葉が、氷の欠片みたいに喉に刺さって、彼の自尊心をずたずたにしていた。
「若様……」佐藤が小さく促す。「薬のこと、奥様がいちばん……前はいつも奥様が――」
「分かってる」
優空は遮る。声がやけに硬い。
分かっている。ただ、どう切り出せばいいのかが分からない。
雪乃は着信音で目を覚ました。
熱がようやく下がったばかりで、身体はまだふわふわと力が入らない。枕元のスマホを探り当て、画面に表示された名前を見て固まる――今野優空。
時間を確認し、切ろうとした。
でも、萌花の顔が浮かんで、結局通話を取る。
言葉を発する前に、男の低い声が叩きつけられた。
「萌花が熱を出した。前は何の薬を飲ませてた? 抗生剤はどれだ。どこに置いてある」
矢継ぎ早の質問。まるで尋問だ。
雪乃は息を深く吸い込む。不満より先に、萌花への心配が胸を埋めた。
「ナイトテーブルの2段目の引き出し。左が冷却シート、右が二層に分かれてる」
「上の段が薬。腸胃炎で熱が出るとぶり返しやすいから、解熱剤を飲ませて1時間半たっても下がらないなら、ぬるま湯で身体を拭いて。……今日、何か食べた?」
電話の向こうが数秒沈黙した。優空の視線が佐藤に向く。
佐藤は首を横に振り、思い出すように答えた。
「お昼に、お粥を半分くらい……」
「……俺は知らない」
優空はようやく言った。萌花が夕食を取っていないことに気づき、歯噛みする。「佐藤がそう言ってる。半碗くらいだ。他は食べてない」
雪乃は目を閉じた。
半分のお粥だけ。
あれだけお腹を空かせていたのに、それで一日を持たせたのか。
中島晴美も、今野優空も。誰も気にかけなかった。
雪乃は込み上げる言葉を押し殺し、指示だけを重ねる。
「引き出しに乳酸菌のスティックがある。明日の朝、空腹で1本。胃腸を整えるの。数日は牛乳も果物もだめ。脂っこいものも禁止」
苛立ちで指が震えるのを、ぎゅっと抑えた。
「夜中に起きたら水を欲しがる。冷たい水は絶対だめ。枕元のマグボトル、ぬるいのが入ってるから触って。ぬるくなってたら、入れ替えて」
「今つらいって言うのはお腹が痛いの。手を温めてから、優しくさすって。強く押さないで」
優空の胸の奥に、ちくりと罪悪感が刺さる。萌花を見落としていた。なのに雪乃の冷たさにも腹が立つ。
自分は空腹じゃなかったから、子どもは違うなんて考えもしなかった。
以前の雪乃は、こういうことを柔らかい口調で、笑いながら言った。薬を小分けにし、ラベルまで貼って、彼が忘れないようにしてくれた。
それが今は、よそよそしい。たった一日で、見知らぬ他人みたいに。
考えるほど眉間が深くなり、佐藤が横でびくびくするほどだった。
「……ほかに用はある?」
雪乃が先に尋ねた。
「ない」
喉がきゅっと締まる。昔みたいに、雪乃が何か言い足してくれるのをどこかで待ってしまう。
「じゃあ切る」
「待て、俺――」
ツー、ツー。
通話は切れた。
優空はスマホを握りしめ、先に頭を下げる言葉を喉の奥で噛み殺したまま、苛立ちに任せてベッドへ放り投げる。
「聞いたな。言われた通りに薬を探してこい」
冷えた声で命じると、佐藤はすぐ部屋を出ていった。
加藤先生の到着は早かった。診察の結果は、急性腸胃炎による発熱の反復。解熱剤が処方された。
「前にもありましたか。薬があって助かりました」加藤先生は言う。「胃腸が弱い子は、空腹がいちばん危険です。冷たいもの、脂っこいものは厳禁」
優空はうなずいた。
本当は、何も知らないくせに。
萌花が三歳のとき、急性腸胃炎で入院した。あのとき彼は出張中で、雪乃が七日七晩ひとりで付き添った。
四歳のときはアレルギーでショック症状。彼は会社でM&Aグループの会議中で、雪乃が抱きかかえて救急へ駆け込んだ。
五歳のときは――
知らない。
自分は、萌花をどう育ててきたのか、雪乃がどんな日々を積み重ねたのか、何ひとつ。
加藤先生が帰ったあと、優空はベッドの端に腰を下ろした。
萌花はつらそうに寝返りを打ち、小さな口で途切れ途切れに「ママ」と呼び続ける。
電話を切った雪乃は、もう眠れなかった。
天井を見つめ、目の奥がつんと痛む。心配が胸をかきむしる。
5時半。空がまだ薄く白むころ。
雪乃は起き上がり、キッチンへ入った。
萌花のためのスープ。何百回も作った。目を閉じていても手が覚えている。
腸胃炎は何度もあった。そのたび、雪乃はこうやって乗り越えてきた。
米を二度研ぎ、なつめを切って種を取り、大火で沸かしてから弱火に落とす。ことこと、ゆっくり。部屋いっぱいに香りが広がる。幼い萌花が、これだけは飲んでくれた。
弁当箱に詰め、付箋に注意事項を書いて貼る。
雪乃はクーリエを手配し、病院へ届けさせた。
しばらくして佐藤から電話が入る。
萌花が「チキンスープが飲みたい」と泣き、他のものを受け付けないという。
雪乃は気持ちが折れた。もう一度チキンスープを作り、悩んだ末に自分で病院へ持っていくことにした。萌花が飲むのを、この目で見届けたかった。
病室の扉を押し開ける。手にはチキンスープ。
萌花は顔色を失ってベッドに横たわっていたが、雪乃を見るなり、視線は真っ先に雪乃の手元へ吸い寄せられた。
「晴美おばさん! ママがチキンスープ持ってきたよ! 熱いうちに飲んで!」
萌花は嬉しそうに、隣にいる女へ笑いかける。
病室が、しんと静まった。
中島晴美が顔を上げる。
萌花から雪乃へ、視線が移った。
晴美は優しく萌花の頭を撫で、雪乃を見て微笑んだ。その眼差しには、隠しきれない得意げな光。
「萌花って、本当にいい子ね」
口元をゆるめ、さらりと言う。
「ありがとう。それと……あなたのお母さんにも、よろしく」
萌花は褒められた子犬みたいに目を細め、今にも尻尾を振りそうだった。
雪乃はそこで、全部を理解した。
一気に血の気が引く。自分が滑稽に思えた。
萌花は、雪乃のお粥が嫌になったわけじゃない。
ただ、チキンスープを飲みたいのは別の誰か――中島晴美だ。
二時間以上かけて炊いたお粥が、「晴美おばさん、チキンスープが飲みたい」の一言に負ける。
雪乃は黙って、容器をテーブルに置いた。
晴美の笑い声が、耳の奥でいつまでも残響する。
萌花は雪乃がふたを開けるのを見つめ、振り返って晴美ににこっとした――その瞬間。
雪乃はチキンスープを、そのまま晴美のシーツへ叩きつけるように注いだ。
どろり。じゅわっ。
熱い汁が一滴残らず広がっていく。
萌花は固まった。手が空中で止まる。
中島晴美の笑顔が口元で凍りつき、熱さに肌が赤く染まって、悲鳴が漏れた。
今野優空が勢いよく立ち上がり、信じられないものを見る目で雪乃を見た。
「雪乃……何してる。正気か?」
