第8章 もう少し寛大になれないの?
今野優空の言葉が落ちた瞬間、雪乃の手から器がするりと滑り落ち、床に叩きつけられた。
ぱしゃん、と乾いた音。次いで、陶器が散っていく。
チキンスープはシーツを伝ってぽたぽたと滴り、濃い香りだけが病室に残った。
中島晴美は腕を真っ赤に染め、手首を押さえている。
俯いたまま唇を噛みしめ、次の瞬間には、泣き出しそうな目で今野優空を見上げた。
「雪乃」今野優空の顔は青黒いほどに強張っていた。「何をやってる。晴美に謝れ」
雪乃は彼を見なかった。
俯いたまま弁当箱の蓋をきっちり閉める。耳元で羽虫がぶんぶん鳴っているだけ、というふうに。
蓋を閉め切ってから、ようやく顔を上げた。
「騒いでなんかいない」淡々と告げる。「ただ、もったいないと思っただけ」
今野優空は眉をひそめる。何を言い出すのか、まるで理解できない。
「何が、もったいない?」
雪乃が一瞬だけ視線を向ける。
その冷え切った目に、今野優空は背筋がぞくりとした。
「私のチキンスープ」
間を置き、今度は固まった萌花へゆっくり視線を移す。
唇の端を引いてみせるが、笑ってはいない。
「私ね、朝4時半に起きて、2時間半煮込んだの。萌花の胃がまた痛くならないようにって。チキンスープが飲みたいって聞いたから――」
雪乃は深く息を吸い込み、指をきゅっと握りしめた。
「てっきり、私の娘が飲みたいんだと思った」
病室は、しんと静まり返った。
萌花はぱちぱちと瞬きをし、中島晴美の惨めな姿に胸を痛めるように見つめるばかりで、雪乃の視線に気づかない。
中島晴美は俯き、濡れた睫毛の先から涙をぽとぽと落としていく。
「雪乃さん、ごめんなさい」中島晴美は怒りを飲み込み、哀れっぽく声を作った。「私が悪いんです。萌花の前でチキンスープが飲みたいなんて言うべきじゃなかった。萌花が、雪乃さんは気にしないって言うから、つい……つい、ついでにって……」
言えば言うほど委屈そうに、涙は止まらない。
「ほんとに、奪うつもりなんて……」
「あなたじゃ無理」
中島晴美の嗚咽が、ぴたりと止まった。
「……え?」
「だから、無理」雪乃はその目を真っすぐ見返す。「あなたも。あなたたちも」
今野優空へ視線を滑らせる。
「私が煮たスープを飲む資格なんて、ない」
今野優空は拳を握りしめ、苛立ちを隠さず雪乃を睨んだ。ますます、手に負えない。勝手すぎる。そう顔が言っている。
雪乃は、彼が口を開くのを待たなかった。
空になった弁当箱を提げ、踵を返して入口へ向かう。
萌花の横を通り過ぎても、足は止まらない。
萌花は顔を上げ、去っていく背中を見つめた。
「ママ」と呼びたいのに、声が出ない。
雪乃は振り向かなかった。
そのまま病室から消える。
扉の向こうを見つめたまま、萌花の胸に、すとんと穴が空いた気がした。
どうしてママが怒るのか、分からない。
晴美おばさんにも、おいしいものを飲ませてあげたかっただけなのに。
晴美おばさんは病気で、かわいそうで、あと三か月しかない。
だから、笑ってほしかった。
チキンスープを譲ったら、晴美おばさんは「いい子ね」って褒めてくれた。パパも「それは違う」って言わなかった。
なのにママは怒った。
ママはスープを晴美おばさんにかけて、熱くて泣かせた。パパも怒った。
萌花は俯き、自分のつま先を見つめる。
分からない。
ママが、ケチなだけなのに。
病室では、中島晴美の泣き声がどんどん大きくなる。
「もう、泣くな」今野優空は視線を引き戻し、赤くなった腕の火傷を確かめた。「ナースを呼んで処置してもらう」
中島晴美は首を横に振り、涙のまま彼の袖口を掴む。
「優空、雪乃さんを責めないで……きっと、気分が悪かっただけ。私、我慢するから」
しゃくり上げるほどに健気に見えて、整った顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
「全部、私が悪いの。私があなたたちの生活に現れなければ……私がいなくなれば、家族三人、また元通りで……」
今野優空の眉間の皺はさらに深くなり、雪乃への不満だけが募っていく。
「そんなこと言うな」
それだけ言い捨て、呼び出しベルへ手を伸ばす。
中島晴美はその背中を見つめ、涙が乾ききらない目で、唇の端だけを上げた。
――少なくとも。彼の態度が、変わったのを感じる。
雪乃は病院の前に立ち、冷たい風にぶるっと身を震わせた。
手元の空の弁当箱を見下ろし、しばらく動けない。
あまりに長く立ち尽くしていたせいか、警備員が顔を出して「タクシー呼びますか」と声をかけてくる。
雪乃は首を振り、自分で流しを止めた。
加藤莉々は徹夜でゲームをしていたらしく、欠伸をしながらドアを開け――そのまま固まった。
寝ぼけているのかと目をこすり、もう一度見て、息を呑む。
雪乃が立っていた。
顔色は紙みたいに白い。弁当箱を提げた手。焦点の合っていない目。
「雪乃、どうし――」
言い終える前に、雪乃が抱きついてきた。
加藤莉々の肩へ顔を埋め、震えながら、ただ黙って縋りつく。
加藤莉々は何も聞かない。腕を回し、背中をゆっくり叩いた。
「中で話そ」子どもをあやすみたいに言う。「ほら、入ろ」
雪乃はソファに座り込み、長い沈黙のあと、ようやく今日のことをぽつぽつ話し始めた。
聞き終えた加藤莉々の顔色は、みるみる悪くなる。
ばん、とテーブルを叩いた。
「クソ」
勢いよく立ち上がってリビングを二周し、戻ってきた頃には頬まで真っ赤だ。
「今野優空、頭おかしいんじゃない? 中島晴美が余命三か月だから何? 三か月なら何しても許されんの? 人の旦那と娘、好き勝手に引っ張って、挙げ句に偉そうにできんの? 余命三か月って、そんなに偉いの?」
息が荒い。
「それに萌花も! あんたが五年育てて、五年食べさせて、アレルギーのときは一晩ついて、熱出したら徹夜して! そのあんたが作ったものを、平気であのクズに差し出すとか!」
加藤莉々は胸を上下させ、声が震える。今にも二人を引き裂きに行きそうな勢いだ。
「雪乃、優しすぎる。私なら弁当箱ごと、頭にかぶせてる」
雪乃はソファにもたれ、思わず小さく笑ってしまった。
久しぶりに、表情にかすかな温度が戻る。
「もう、作らない」
加藤莉々が目を瞬かせる。
「これからは……」雪乃は間を置く。「何も、作らない」
加藤莉々は彼女を見つめ、急に目の奥が熱くなった。
こんな雪乃は、見たことがない。以前の雪乃は、いつだって眩しいほどまっすぐで――それが、たった五年でこんなに。
「行こ」加藤莉々は手を掴んだ。「飯、食いに行く」
雪乃は首を振り、ソファに沈む。
「食欲ない」
「なくても食うの。熱下がったばっかで、今日一日あれこれやって。自分で自分を殺す気?」
有無を言わさず引っ張り起こし、玄関で上着を肩にかけてやる。
「前に好きだった店。食えなきゃ私が食う。いいから、あんたは口に入れる」
雪乃は逆らえず、黙ってついていった。
レストラン。
加藤莉々は雪乃の好物を次々頼み、二人では到底食べきれない量がテーブルを埋めた。
心が空っぽなら、せめて腹を満たせ――そんな乱暴な優しさ。
「これ、飲みな」加藤莉々はチキンスープを雪乃の前へ押しやった。「あったまる」
雪乃はスープを見つめ、スプーンを取らない。
加藤莉々は何か言いかけて、飲み込んだ。
代わりに、最近観たドラマの話や、会社に入ってきた変な新人の話をする。
雪乃は時折相槌を打つだけで、スプーンでスープをそっとかき回す。その様子が痛々しくて、加藤莉々は胸が詰まった。
二十分ほど経ったころ、個室の扉が外から開いた。
案内された客が通りかかり、こちらのテーブルで足を止める。
「え、今野の奥様じゃない?」
甘ったるい女声が、わざとらしく大きく響いた。
雪乃が顔を上げる。
シャネルのセットアップに、隙のないメイク。エルメスのバッグを腕に掛け、にこにこ見下ろしてくる。
中島留奈。中島晴美の従妹だ。
その後ろに、江口千加と林谷由美。
中島晴美の取り巻きで、雪乃もパーティーで数回顔を合わせたことがある。
そして彼女たちに囲まれるように中島晴美がいて、今野優空の腕に掴まり、いかにも「偶然です」という顔でこちらを見る。
長い髪を下ろし、腕には包帯が巻かれていて、儚げな美しさが増していた。
萌花は今野優空の反対側の手を握り、小さな顔をほころばせながら何か話している。
ぞろぞろとした一団が雪乃の前で止まった途端、空気がひりつくほど静かになった。
中島留奈が真っ先に口を開く。雪乃を上から下まで眺め、口元を隠してくすくす笑う。
「奥様、今日は顔色悪いですねぇ。家のことって大変ですもんね。晴美みたいに生まれつき美しい人は、病気でもこんなに綺麗なのに」
江口千加がすぐ乗る。
「晴美の肌と雰囲気、さすがだよね。優空兄が昔から忘れられないのも分かる」
「昔から、じゃなくて今も、でしょ」林谷由美が口元を押さえて笑った。「今日だって優空兄が晴美のためにご飯用意して、私たちまで呼んだんだもん。愛だよね」
三人が歌うように言葉を重ねる。雑談のふりをして、刃を見せる笑顔。
雪乃の手の中で、スプーンが止まった。
加藤莉々の顔が沈み、口を開きかけた瞬間――雪乃がテーブルの下で彼女の手首を押さえる。
雪乃は立ち上がり、扉を閉めようとした。聞く価値もない、羽音みたいな声だ。
「行かないでよ」中島留奈が一歩詰め、にこにこしたまま行く手を塞ぐ。雪乃が逃げると思ったのだろう。
「せっかく会ったんだからお話ししましょ。そんなに急いで、晴美さんを見るのが嫌なの? それとも後ろめたくて怖いの?」
雪乃は答えない。氷みたいな目で、女を見返すだけ。
中島晴美がそっと中島留奈の袖を引き、わざとらしく「いたっ」と息を漏らして手首を見下ろした。
「留奈、やめて……雪乃さん、わざとじゃなくて、うっかりスープをこぼしただけだから」
そう言ってから雪乃へ向き直り、申し訳なさそうな目を向ける。
「雪乃さん、今日のことは私が悪かったです。分けてもらえるなんて勝手に思って……でも、私、あと三か月しか――」
江口千加が目を赤くする。
「晴美さん、そんなこと言わないで! いい人ほど早く――神様ってほんとひどい」
林谷由美が雪乃を睨みつけた。
「心が狭いよね。余命がどれだけか分かってる人にまで、そんなふうに」
中島晴美は友人たちに守られるのを当然のように受け取り、顎をわずかに持ち上げた。
そして柔らかい声で、甘えるように言う。
「手を怪我しちゃったから……雪乃さん、靴ひも、結んでくれない?」
加藤莉々が噛みつく。
「手ないの? それとも障害でも残った?」
中島晴美は困ったふりをする。
「でもこの手、雪乃さんにやられたんだよ? これくらい、別に無理なお願いじゃないでしょ」
雪乃の視線が今野優空にぶつかる。
彼の目は、刃物のように冷たかった。
「晴美はあと三か月なんだ。少しぐらい、優しく譲ってやれないのか」
