第9章 死にかけるのが、あんただったらよかったのに
雪乃は冷たく笑った。喉の奥に、苦いものがこびりつく。
――寛大になれ、だって?
まだ何も言い返していないのに、加藤莉々が手にしていた茶碗をばん、と卓上に叩きつけた。
「善良? 寛大?」
椅子を乱暴に押しやって立ち上がる。その気配だけで場の空気が一瞬、凍った。
莉々は今野優空をにらみつけ、怒りすぎて逆に笑ってしまったように言う。
「今野優空、恥ってもん知らないの?」
今野晴美が眉をひそめ、むっとして前に出た。
「誰よ、あんた。言い方が――」
言い終える前に、加藤莉々が卓をひっくり返した。
どしゃっ。
料理の汁、皿、箸、碗。全部が宙を舞い、向かいの連中に容赦なく降り注ぐ。
「きゃああっ!」
悲鳴があちこちで上がった。
中島留奈は避けきれず、スカートに汁がべっとり貼りつき、みっともなく濡れそぼる。江口千加は飛んできた碗が肩に当たり、「いった……!」と顔をしかめた。林谷由美はよろめいて後退し、背後の椅子をがたんと倒す。
一番ついていなかったのは、輪の中心にいた中島晴美だった。
割れた陶片が一直線に頬へ飛び、すっと皮膚をかすめる。あとほんの少しズレていたら、顔に深い傷が入っていた。
「きゃっ!」
中島晴美は甲高く叫び、反射的に今野優空の背へ逃げ込む。袖を掴んで離さない。
「ぁ……!」
萌花がこの騒ぎにすくみ上がった。数秒固まってからようやく理解したように、口をへの字に曲げて泣き出す。小さな顔が真っ赤になる。
「パパ……パパ、こわい……」
今野優空は顔を鉄みたいに硬くして萌花を抱き寄せ、冷たい視線を加藤莉々へ突き刺した。
「頭おかしいのか?」
加藤莉々は手をぱんぱんと払う。
「おかしい? あたしは正気だよ」
床に散った惨状を指し、今野優空の背後に隠れた中島晴美へ、嘲るように目を細める。
「今野優空。善良で寛大がいいんでしょ? 雪乃の代わりに、あたしが善良で寛大になってあげた。今日の食事代はこっち持ち。礼はいらないよ」
中島留奈が怒りで震えながら叫ぶ。
「なにさまよ! よくも私たちに手を出せるわね!」
「なにさま?」莉々は眉を上げる。「雪乃の親友。あんたらが彼女を踏みにじってる時、誰も守らないと思った?」
一歩、莉々が詰める。
中島留奈は反射的に半歩、引いた。
「なに、怖いの? さっきまでよく口が回ってたじゃん。生まれつき美人だの、昔は忘れられなかっただの、今も忘れられないだの」
わざと甘ったるい声を作り、鼻にかけて真似る。
「言っとくけどね。中島晴美が余命三か月だから何? 三か月なら人の夫を奪っていいの? 三か月なら人の娘を焚きつけていいの? 三か月なら奥さんに靴ひも結ばせてもいいの?」
莉々は指を突きつける。狙いははっきり、中島晴美の鼻先。
「自分を何様だと思ってんの? ただの悪女じゃん」
中島晴美は今野優空の陰で目を真っ赤にし、涙を溜めたまま唇を噛む。
「そんなつもり……ないの。本当に、ないの……」
袖を引き、嗚咽混じりに訴える。
「優空、私……帰る。もう揉めたくない。全部、私が悪いから……」
立ち去ろうとした瞬間、今野優空が反射的に手首を掴んだ。
「悪いのは君じゃない」
そして彼は、最初から最後まで席を立たず、微動だにしない雪乃を見る。
莉々が卓を返してから、雪乃は一度も立ち上がらなかった。止めもしない。
ぽたり。
汁が一滴、雪乃の手の甲に落ちる。雪乃は淡く視線を落としただけ。髪が表情を隠し、何を思っているか分からない。
まるで、周囲の騒ぎが全部、他人事みたいに。
萌花は泣きやまず、完全に怯えている。なぜ莉々が突然卓を返したのか分からない。
――そして、ママは座ったまま。晴美おばさんが攻撃されているのに止めない。何も見ていないみたいに。
「……ママ……」
しゃくり上げながら呼ぶ。
雪乃が顔を上げた。
母娘の視線がぶつかる。萌花の大きな瞳は、理解できない色でいっぱいだった。
雪乃は数秒、娘を見つめ――ゆっくり立ち上がる。
散らばった破片と汁を避け、一歩ずつ萌花へ向かった。
今野優空は思わず娘をきつく抱え直し、眉を寄せて警戒する。
雪乃は今野優空を無視し、萌花の前にしゃがみ込んだ。目線を合わせる。
「萌花」
無数の視線が自分に刺さるのを感じながら、雪乃は言った。
「ひとつ、聞くね」
萌花は鼻をすすり、こくんと頷く。
「中島晴美は、いい人だと思う?」
萌花は少しだけ固まり、振り返って中島晴美を見ると、真剣に頷いた。
「うん。いい」
「どこがいいの?」
萌花は指を折って数える。
「かわいいし、怒らないし、いっしょに遊んでくれるし、おいしいものくれるし、ぜったい怒鳴らないし……」
言えば言うほど口が滑らかになり、頬がゆるむ。最後には振り返って中島晴美に、ぱっと明るい笑顔を向けた。
「パパも好き」
雪乃は遮らない。全部言わせてから、静かに尋ねた。
「じゃあ、ママは?」
萌花は黙った。うつむいたまま、長い沈黙のあと、小さく言う。
「ママはいつも、ダメって言う。これもダメ、あれもダメ。怒るし……」
顔を上げる。赤い目で、さっきまでの笑みはない。恨むみたいに雪乃を見た。
「それに今日、ママは晴美おばさんにスープかけた……」
雪乃は黙って聞き終える。胸の中は、とっくに砕けていた。
手を伸ばし、萌花の頬の涙を拭う。
「萌花」
雪乃は言った。
「今日、ママはあなたにひとつ教えたい」
萌花はぱちぱち瞬きし、見返す。
「人は、尊厳を持って生きなきゃいけない」
雪乃は真っ直ぐに。
「誰かに気に入られたいからって、自分の尊厳を捨てちゃだめ」
「好きだからって、何でも言うことを聞いて、何でも譲って……ママが煮たスープまで、よその人にあげるなんてしなくていい」
「お金のために。好きだとかいう理由のために。男ひとりのために……へつらって、恥まで捨てる必要はない」
一拍置き、萌花の顔を見た。
「分かった?」
萌花はぽかんと雪乃を見つめる。分からない。でも、隣で中島晴美がまた泣き始めたのが分かった。
ママはまた、晴美おばさんを泣かせた。今日、二回目。
晴美おばさんはいい人で、ママはわるい。
「ママ……」
手を伸ばし、雪乃の服を引こうとする。
雪乃が立ち上がる。周囲がどよめいた。雪乃が、ここまで言うとは思っていなかったのだ。
背後で中島留奈がようやく我に返り、甲高く叫ぶ。
「雪乃! 顔もいらないって、誰のこと言ってるのよ! 誰を侮辱してるの!」
雪乃は取り合わない。
中島晴美が今野優空の陰で嗚咽し、顔を覆う。
「留奈、やめて……。雪乃さん、気分が悪いだけ。言ってるのは私のことだし、私が我慢すればいいの……」
涙がぽろぽろ落ち続ける。
「私が悪いの……ここにいるべきじゃなかった。生きてるべきじゃなかった……私が死ねばよかった。そうしたら、みんな喧嘩しなくて済むのに……」
胸を押さえ、よろよろと出口へ向かう。
「帰る。今すぐ帰る……」
「晴美!」中島留奈が駆け寄って支える。「そんなことしないで! 病気なんだから、無理しちゃだめ!」
江口千加と林谷由美も寄ってたかって支え、口々に宥める。
「晴美、自分を責めないで。全部あの女が悪い」
「そうよ。晴美は何も悪くない」
「身体が大事よ、相手にしないで……」
支えられたまま、中島晴美は今にも倒れそうに揺れ、涙に滲む目で今野優空を見上げた。
「優空、ごめんなさい……本当に、わざとじゃないの。お願い、私を帰らせて……萌花をこれ以上困らせたくない……」
そう言って、本当に外へ出ようとする。ふらふらで、いつ崩れてもおかしくない。
その瞬間、萌花が今野優空の手を振りほどき、駆け寄って中島晴美の脚に抱きついた。
「晴美おばさん、行かないで!」
小さな顔を上げ、泣きそうな声で訴える。
「行かないで。晴美おばさんがいい」
中島晴美は見下ろして、そっと頭を撫でる。
「萌花、いい子。私だって行きたくない。でも、私がいると……あなたのママが怒るの」
「ママが悪い!」萌花はもっと激しく泣いた。「悪いのはママだもん! ママが出ていけばいいの!」
萌花は振り向き、雪乃を見た。
雪乃は入口近くに立ったまま、娘が別の女に抱きつく姿を見つめていた。痛みはもう、痺れるほどで。
「ママ!」
萌花の小さな身体から、信じられないほど大きな嫌悪が滲む。
「晴美おばさん、あと三か月しかないのに……ママがその病気になればよかった。そしたら晴美おばさんは元気でいられて、私のママになれるのに」
