第3章 兄さん

水上伊鶴がこくりとうなずいた、その直後だった。背後から、木村美菜の鼻につく声が飛んでくる。

「高級車を何台か借りたくらいで、お嬢様にでもなったつもり? 醜いアヒルの子は、どれだけ飾り立てたって白鳥にはなれないのよ!」

水上伊鶴は何も言い返さなかった。正直、今日の大仰な出迎えには彼女自身も少し驚いている。

けれど、実の親に金があるかどうかなんて、別にどうでもよかった。もともと田舎へ戻るのは、静かな場所で暮らしたかったからだ。自分の力さえあれば、どこにいたってそうひどい生活にはならない。

「ママ、お姉ちゃんをそんなにいじめないでよ。お姉ちゃん、ただ見栄っ張りなだけなんだから」

水上葵がくすっと吹き出し、わざとらしく水上伊鶴を見た。

「お姉ちゃん、これだけの車を1日借りたら、相当なお金がかかるよね? まさかローンまで組んで見栄張ったわけじゃないよね?」

その言葉に、招待客たちの間からどっと嘲りの笑いが起こる。誰も彼も、水上伊鶴が虚勢を張っていると思い込んでいた。

無理もない。水上伊鶴は水上家から追い出された身だ。もし本当にそれほどの力があるなら、水上家がとっくに掌に乗せて大事にしているはずだった。

もう聞いていられず、北川が怒声を上げた。

「水上家はまともな方々だと思っていましたが、まさかここまでお嬢様を侮辱するなんて!」

「へえ、執事役、なかなか板についてるじゃない」

木村美菜は腕を組み、顎を上げたまま嘲る。

「それなら聞かせてちょうだい。芹沢家ってお宅、Y市に不動産はいくつ持ってるの? 車は何台? 何をしてる家なの?」

「それは芹沢家の社外秘です。あなたにお話しする必要はありません」

北川は冷え切った声で言い放つ。

「ははっ、あはははは!」

木村美菜は耳障りな笑い声を上げ、ついには涙まで浮かべた。

「言い逃れできなくなったからって、社外秘? もう、笑わせないで!」

水上葵も、これで北川が水上伊鶴の雇った役者だと完全に思い込んだらしい。すぐに調子を合わせた。

「お姉ちゃん、悪いけどさ、その人、役者としても三流だよ。田舎者が社外秘なんて言葉、知ってるわけないじゃない。そんなこと考える暇があるなら、ゴミの分別でも研究してたほうが向いてるんじゃない?」

「あなたたち……!」

北川は怒りで顔を真っ赤にし、今にも言い返しかけた。だが、水上伊鶴がそれを制する。

「もういい。相手にしなくていいわ。行きましょう」

北川は悔しさを滲ませた目で一同をひと睨みした。胸の内では、奥様が用意していた2億円相当の謝礼を水上家に渡さなくて本当によかった、と毒づいている。こんな連中には、1円たりとももったいない。

水上伊鶴が車に乗り込むと、車列は静かに走り出した。

助手席に座った北川は、そっと横目で彼女をうかがい、小さな声で言う。

「お嬢様、申し訳ありません。私の不手際で、あのような思いを……」

「別にいいわ」

水上伊鶴は淡々と返し、それから窓の外へ目を向けた。

「でも、この道……市街地へ向かってるわよね」

実の両親は田舎に住んでいると聞いていた。なら、本来は通るはずのないルートだ。

北川はうなずく。

「はい。お嬢様の安全のため、市街地で移動手段を変更いたします」

「移動手段を変更?」

水上伊鶴は眉をひそめた。芹沢家というのは、ずいぶんと手の込んだ真似をするらしい。

さらに20分ほど走ったのち、車はだだっ広い空き地で停車した。

水上伊鶴が降り立った、その瞬間。

――ゴオオオオオッ。

頭上から、凄まじい轟音が降ってくる。

顔を上げると、1機のヘリが上空からゆっくりと降下してくるところだった。だがそれだけでは終わらない。着陸と同時に、16台の車のルーフが一斉に開き、車体ががこん、と変形を始めた。左右には翼のようなパーツが展開し、上部には接続ユニットがせり上がる。

次の瞬間、すべての車両がヘリへ向かって自動で接近し、かちり、かちりと組み上がっていく。

やがてそこに現れたのは、黒の飛行艇だった。

水上伊鶴は思わず目を見開く。

――この車両連結技術。

まぎれもなく、自分が開発したものだ。

とはいえ、彼女が匿名で進めていた設計案はまだ試験段階にすぎない。正式公開などしていない。にもかかわらず、なぜ芹沢家がこの技術を手にしているのか。

水上伊鶴が訝しんでいると、機体のハッチが開いた。内部から自動タラップがせり出し、そこを1人の男がゆっくりと降りてくる。

年の頃は25歳。長身で、背筋の伸びたスーツ姿。凛々しい眉に、鋭く整った目鼻立ち。とりわけその目が印象的だった。水上伊鶴のそれと驚くほどよく似ていて、黙って立っているだけで人を圧するような気配がある。

北川が即座に駆け寄る。十数人の護衛たちも、ぴたりと揃って深く頭を下げた。

「若様!」

男は小さくうなずき、そのまま水上伊鶴の前まで来ると、しげしげと彼女を見つめた。

「似てる……本当に、よく似てる」

そう言って微笑む。

「俺は君の兄だ。芹沢蒼真」

水上伊鶴は軽くうなずくだけで応じた。

「とりあえず、中で話そう」

芹沢蒼真はそう言って、トランクへ回り込み、彼女の荷物を持とうとする。

すると護衛たちがわっと殺到した。だが芹沢蒼真はひと睨みでそれを止める。

「下がれ。妹の荷物くらい、俺が持つ」

護衛たちは一斉に身を引いた。

芹沢蒼真はスーツケースの持ち手を握り、軽く持ち上げようとする。

――びくともしない。

「……ん?」

一瞬きょとんとしたあと、今度は腕に力を込める。だが、それでもスーツケースは地面に張りついたように動かなかった。

中に何が入っているんだ。どうしてこんなに重い?

北川がそっと近寄り、耳打ちする。

「若様、その箱、私どもでも2人か3人がかりでようやくです」

「それを先に言え!」

芹沢蒼真は低く怒鳴り、北川を睨みつけた。

妹の前で盛大に格好を潰された気分だった。なおも意地で持ち上げようとした、そのとき。

水上伊鶴がすっと歩み寄り、片手でひょいと持ち上げてしまう。

芹沢蒼真はしばし呆然としたのち、心の底から感心したように言った。

「さすが芹沢家の人間だ。やることが普通じゃない」

水上伊鶴はかすかに笑い、そのまま荷物を持って機内へ入る。

内部空間は、彼女の想像よりずっと広かった。各座席の前にはタッチパネルが備えつけられている。その設計思想まで、自分が当初組んだ構想とほとんど同じだ。

席についた水上伊鶴は、前置きもなく口を開いた。

「で、いつから私を追っていたの?」

もし彼女の読みが正しければ、芹沢家はとうに自分の科学者としての身元を掴み、この技術の使用権を高値で手に入れているはずだった。

芹沢蒼真は、その問いに少しだけ目を丸くしたが、すぐ苦笑を浮かべる。

「水上家の老人が、昔、君の生年月日を改ざんしたんだ。さらに周到に細工までしてね。特製のシグナル遮断装置で、君の生命反応そのものを隠していた」

彼は静かに続けた。

「俺たちは18年間、ずっと君を捜していた。けれど、君のお祖父さんが亡くなったことで、その細工が完全に崩れた。そこで初めて、君の反応がレーダーに戻ったんだ」

水上伊鶴は彼の顔を見た。どうやら嘘をついているようには見えない。

――考えすぎだったのか。

彼女は椅子に深く腰を下ろし、今度は別の問いを投げる。

「この設計思想、時代を先取りしすぎてる。動力バランス制御を、どうやって半年で突破したの?」

その一言に、芹沢蒼真は露骨に顔をしかめ、眉間を揉んだ。

「それが、もう大変だった。この設計案は、海外の匿名地下情報ブローカーから買ったものなんだ。値段はきっかり3億」

彼は肩をすくめる。

「買ったはいいものの、芹沢家が世界中から一流の技術者をかき集めても、どうにか外殻を真似るのが精一杯だった。肝心の中核アルゴリズムだけは、ずっと文字化けしたまま。もう少しで、飛べない鉄くずになるところだったよ」

そして、水上伊鶴をまっすぐ見つめる。

「本来なら、この計画は打ち切るつもりだった。ところが2週間前、そのアルゴリズムが突然ひとりでに起動したんだ。だからこそ、今日の試験飛行にこぎつけた」

水上伊鶴の瞳がわずかに揺れる。

――なるほど。

その鍵は、3年前に彼女自身が組み込んだ防壁だった。実験データの盗難を防ぐためのファイアウォール。一定以上の信頼性を持つ高セキュリティ機器へデータが移された場合に限り、自動解除されるよう設計してあったのだ。

そして、芹沢家のこの航空艇こそが、その「信頼済みの器」だった。

「あなたたちが買ったのは特許じゃない。ただの紙切れよ」

水上伊鶴の声は、妙に落ち着いていた。

「駆動チップの下位プロトコルは可変式。元の設計者以外が触れれば、システムは10分以内に自己崩壊するわ」

そのときだった。

機体が、ぐらりと大きく揺れる。

次の瞬間、激しい振動が船内を突き抜けた。

芹沢蒼真は反射的に水上伊鶴を庇い、コックピットのほうへ怒鳴る。

「何があった!?」

「若様、大変です!」

北川が血相を変えて駆け込んでくる。

「先ほど乱気流に巻き込まれ、姿勢制御システムが故障しました!このままでは急速降下します!」

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