第2章
浅見水希視点
ソファの上で身じろぎすると、腫れた目に朝の光が突き刺さるように感じた。胃の痛みはまだ続いている。やがて、五十嵐佑真の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「水希?」
その声には、これまで九十七回は聞いてきた、お馴染みの罪悪感の色が滲んでいた。
「どうしてベッドに戻ってこなかったんだ?」
私はまだ目覚めていないふりをして、瞼を閉じたままでいた。本当は、もう一時間も前から起きていて、台無しにされた誕生日のすべてを頭の中で何度も再生していた。
「ここで寝ちゃった」
ようやく目を開けると、彼はそこに立っていた。パリッとした白いシャツに、ネイビーのスラックス。私の誕生日だというのに、私を置いて出かけた時と同じ服装だ。
「まだお腹が痛くて」
佑真の顔が、本心からの後悔に見える表情で歪んだ。彼はコーヒーテーブルの端に腰を下ろし、私に触れようと手を伸ばしかけて、寸前で止めた。
「水希、昨日の夜のことだけど……本当にごめん。君の誕生日だったのに。君がどれだけ大切にしてたかも分かってる」
彼は癖のある黒髪をかき上げた。かつては愛おしいと思っていた仕草だ。
「埋め合わせをさせてほしい。今夜、B市にあるあのレストランに連れて行くよ。君が好きな、あのお店だ。今度こそ、ちゃんとするから」
あのレストラン。五年前、彼がプロポーズしてくれた場所。立花杏弥が私たちの日常に当たり前のように現れるようになるより前、最後の結婚記念日を祝った場所。
「また立花杏弥さんのことで、忙しくなったりしないの?」
意図したよりも棘のある言い方になってしまったけれど、仕方がなかった。傷はあまりに新しく、生々しすぎた。
「彼女、今は落ち着いてる」
佑真は早口で言った。
「今夜は僕たちのものだ。約束する」
約束。その言葉が彼の口からいとも簡単に出てくることに、笑ってしまいたかった。これまでいくつの約束が交わされ、そして破られてきただろう。でも、彼の顔を見て、そのブラウンの瞳に浮かぶ本心からの後悔らしきものを見ると、胸の中でお馴染みの希望が微かに芽生えるのを感じた。
今度こそ、違うかもしれない。本気なのかもしれない。
「わかった」と自分の声が聞こえた。
「今夜ね」
佑真の顔が安堵に輝いた。彼は身を乗り出して、私の額に優しくキスをした。
「愛してるよ、水希。必ず埋め合わせするから」
彼が出て行った後、私は静まり返ったアパートで、昨夜の惨状の残骸をただ見つめていた。ダイニングテーブルの上では、溶けた蝋燭が醜い塊になって固まっている。
彼に厳しすぎたのかもしれない。医者の仕事は複雑だし、立花杏弥さんの容態が本当に深刻なのも事実だ。
午前九時、私は鎮痛剤を飲んで職場へ向かった。オフィスに座り、数分おきにスマートフォンをチェックする。佑真からのメッセージを探しているわけじゃない。ただ、時間が這うように過ぎていくのを見ていただけだ。
退社まで、あと六時間。ディナーまで、あと七時間。
「浅見さん、明日の朝の渡辺さんとの会議ですが――」
アシスタントの久遠健が言いかけた。
「ごめん、それ午後にずらせるかな?」
私は、オンラインで新しいドレスを探しているわけでは決してないパソコンの画面から目を上げずに遮った。
「今夜、大切な予定があるんだ」
久遠は片眉を上げたが、頷いた。
「承知しました。何か良いことでもありましたか?」
「うん」と私は言った。そして今回ばかりは、本心からそう思っていた。
「これで、元気になれるから」
昼休みは『白空レストラン』のメニューを眺めて過ごした。佑真がロブスターのテルミドールを注文したこと。二人でチョコレートスフレを分け合って、彼がネクタイにソースをつけたこと。立花杏弥が現れる前の、すべてがどれほどシンプルだったか。
やめよう、と自分に言い聞かせた。彼女のことは考えないで。今夜は、私たちのための夜なんだから。
午後五時きっかりに、私は玄関のドアを通り抜けた。何を着るかはもう決めている。クローゼットには、佑真が気に入っている青いドレスがかかっている。私の目をより輝かせ、ウエストを細く見せてくれるあのドレスだ。それを着た私を見たときの彼の顔が、目に浮かぶようだった。
メイクを直している途中で、スマートフォンが鳴った。
画面に光る『五十嵐佑真』の文字。途端に、胃が締め付けられた。
やめて。またなの。お願いだから、もうやめて。
「もしもし」
できるだけ明るい声を装って、電話に出た。
「水希、本当にごめん。少し遅れそうなんだ」
彼の言葉は早口で、まるで勇気を失う前にすべてを言い切ろうとしているかのようだった。
「立花さんがさっき電話してきて、また胸が痛むって。病院で様子を見ないと」
マスカラを握っていた指から力が抜け、洗面台のカウンターにカチャンと音を立てて落ちた。
「佑真、二日連続だよ」
「分かってる、分かってるよ。でも、これは医療的な緊急事態なんだ。それは理解してくれるだろ?彼女が落ち着いてるのを確認したら、すぐに家に帰るから。まだ予約には間に合う」
医療的な緊急事態。彼の盾となり、言い訳となり、免罪符となってきた言葉。
「佑真、昨日は私の誕生日だったんだよ」
最後の言葉が、声になって震えた。
「三十歳の、誕生日」
「それについては謝っただろ。いいか、そんなに長くはかからない。立花さんは怖がってるし、彼女の容態がどんなものか君も知ってるだろ。医療的な助けが必要なときに、放っておくわけにはいかないんだ」
立花さんが怖い。じゃあ私は?昨日の夜、盲腸が破裂するんじゃないかと思ったときの私の恐怖は?この連鎖が永遠に終わらないんじゃないかって、今この瞬間に感じている私の恐怖は?
「どのくらい?」と私は尋ねた。その答えが嘘だと、すでに分かっていたけれど。
「一時間か、二時間くらい。ドレスは着たままでいて。ディナーには必ず行くから」
電話が切れた。私は洗面所の鏡に映る自分を見つめた。青いドレスが、急に衣装のように感じられた。現れることのない観客のために、おままごとをしているような。
七時が過ぎ、八時が過ぎ、九時が過ぎていった。
私はまだ青いドレスのままソファに座り、リビングの窓から街の夕暮れが夜に変わるのを眺めていた。眼下には街の灯りがきらめき始めている。何百万人もの人々がそれぞれの夜を過ごし、友人たちとディナーを楽しみ、忘れられていない誕生日を祝い、誰か他の誰かと絶えず注目を奪い合ったりしない人生を生きている。
どうして、こうなったんだろう?
その考えが不意に頭をよぎると同時に、ずっと抑え込もうとしてきた記憶の洪水が押し寄せてきた。







