第1章
木曜の午後二時、東区。青山通りにある私立の医療センターは、床から天井まである窓から陽光が差し込み、真っ白な大理石の床に幾何学的な影を落としていた。私は待合室の椅子に腰掛け、無意識に指で喉の小さなしこりをなぞっていた。
二十九歳の誕生日。自分への贈り物に、私は声帯の検査を選んだ。
「芦原さん?」。看護師の声が、私の沈思を破った。「清水先生の準備が整いました。どうぞ」
殺菌された廊下を彼女についていきながら、私の頭の中では昨晩の『猫』の公演が再生されていた。あの恐ろしい感覚――痛みではない、もっと悪い何か。コントロールを失う感覚を味わった、あの瞬間が。
清水先生は六十代の、劇場街の役者たちを専門に診る、威厳のある男性だった。彼の患者リストは、まるで演劇界の有名人名簿のようだった。
「芦原さん」。彼はプロとしての懸念を表情に浮かべ、私のレントゲン写真を吟味しながら言った。「声帯結節は、我々が当初予測していたよりも深刻です」
心臓が跳ねた。『最悪』
「すぐに精密手術を行う必要があります」と彼は続けた。「大手術ではありませんが、あなたの職業を考えると、ご家族に付き添ってもらうことを強くお勧めします。麻酔からの回復は、辛いこともありますから」
「一人で大丈夫です」。自分でもわかるほど、とげとげしい声が出た。
清水先生は眼鏡越しに顔をしかめた。「芦原さん、あなたが自立した女性だとはわかっていますが、今は意地を張る時ではありません。ご主人か、恋人か――」
「夫は忙しいんです」と私は遮った。「迷惑はかけたくありません」
『忙しいって、何に? 星野沙耶香と新作の稽古で忙しいってこと?』
医師の表情は、同情するような表情に変わった。この業界では、誰が何者で、誰が誰と付き合って、誰が誰に捨てられたかなんて、誰もが知っている。けれど、黒瀬正人と私のことは誰も知らない。
五年間。五年間もの秘密の結婚生活。苗字さえもまだそのままの状態だ、まるで彼が隠し続けてきた、恥ずべき秘密のように生きてきた。
「わかりました」と清水先生はため息をついた。「ですが、術後二時間は、経過観察のためにこちらに残っていただくことになります」
手術はすぐに終わった。回復室で目を覚ますと、喉が奇妙に麻痺していた。看護師が白湯の入ったカップと一枚のメモを渡してくれた。『二時間、会話は禁止です』
私は頷いて目を閉じた。正人が今日が私の誕生日だと覚えていてくれるだろうか、そんなことは考えないようにしながら。
「聞いた?」。隣のベッドから、興奮した囁き声が聞こえてきた。「一面記事ですって!」
目を開けると、二人の看護師が身を寄せ合ってスマートフォンの画面を覗き込んでいた。
「黒瀬正人と星野沙耶香の新作ミュージカル『真夜中の夢』が、一千万円の資金調達に成功したんですって!」。若い方の看護師の声は、羨望に満ちていた。「もう、本当にお似合い!」
「この写真見て」ともう一人がうっとりと言う。「出資者向けのパーティーに二人で出席してる。沙耶香さんが着てるあのヴェルサーチのドレス、すごく素敵!」
「お互いがミューズで――芸術的なソウルメイトなんですって!」。若い看護師は大げさにため息をついた。「正人さんは大成功してて、沙耶香さんは才能豊かで。本当に結ばれてほしいな。最高のカップルよ!」
『芸術的なソウルメイト? じゃあ、私はいったい何? 都合のいい相手?』
「芦原さん、大丈夫ですか?」。看護師が私の表情に気づいた。「顔色が真っ青ですよ」
私は大丈夫だと手で合図して、彼女たちを下がらせた。けれど、私の手は震えていた。
一千万円の資金。ミュージカル『真夜中の夢』。正人は、このプロジェクトについて一言も私に話していなかった。そして妻である私は、病院の個室でたった一人、喉の手術からの回復を待っている。
夕暮れ時、私は個室に移された。夕日がすべてをオレンジ色に染めていた――美しい、けれど胸が張り裂けそうになるほどに。
スマートフォンが鳴った。
画面には、正人の名前。
応答するまで、数秒間ためらった。
「誕生日おめでとう、静香」。彼の声は疲れ切っていた。「電話が遅くなってごめん。今日は本当にめちゃくちゃだったんだ」
「ん」。喉がまだ回復していない私には、それしか言えなかった。
「声がおかしいな。風邪でもひいたか?」
説明しようとしたその時、耳障りなほど甘ったるい女の声が背後から割り込んできた。
「正人さん、それ静香ちゃん?」。沙耶香の声は、まるで私の耳元で直接囁かれているかのように、はっきりと聞こえた。「私からもお祝い言わせて!」
そして、スマートフォンが奪われた。
「静香ちゃん、お誕生日おめでとう!」。沙耶香の声は、偽りの親密さを滴らせていた。「正人さんと私、ちょうど資金調達成功のお祝いをしてるとこなの。『真夜中の夢』のね。彼がすっごく美味しいケーキを買ってくれて! 半分残ってるから、ちゃんと持って帰らせるわね!」
胸が締め付けられた。彼らは一緒にいる。私の誕生日に、二人で祝杯をあげている。
「沙耶香――」。背景のどこかから、正人の声がした。
背景で笑い声が上がった。「正人さんって、沙耶香ちゃんがいる時だけ素が出るよね! もう長年連れ添った夫婦みたい!」
私は電話を切った。
堰を切ったように、涙が次から次へと頬を伝って流れ落ちた。
五年間。五年間もの秘密の結婚生活、五年間もの静かな忍耐、五年間もの自己欺瞞。私は、彼の人生において何の意味も持っていなかった。完璧な独身というイメージを保つために彼が隠しておく、使い捨ての脇役に過ぎなかったのだ。
そして、あの「芸術的なソウルメイト」である星野沙耶香が、スポットライトを浴びて立つ主役の女優だった。
