第1章

 廃棄されたB区の倉庫。重く淀んだ空気の中には、むせ返るような硝煙の臭いと、私自身の血が放つ、おぞましくも金属質な生臭さが立ち込めていた。

「早美さん、敵だらけです!地図がデタラメです!」

 鼓膜を劈く自動小銃の連射音を掻き消すように、副官が声の限りに絶叫した。

 彼の言う通りだった。本来なら敵対組織の側面を突くはずだったのに、成人が私に渡した撤退ルートはあからさまな死の罠であり、私たちを敵主力の正面火力のど真ん中へと導いていた。

「撃ち続けろ!包囲を食い破れ!」

 命令を下した瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。引き裂かれるような、あの忌まわしい灼熱感が背筋を這い上がってくる。

 どす黒い血を一つ咳き込み、コンクリートの床にぶちまけた。それは十年前から私の体内に潜んでいた毒——かつて成人への致命的な一撃を庇い、代わりに飲み込んだあの劇毒が、満身創痍の肉体に呼応して完全に牙を剥いたのだ。

 全身のあらゆる神経が悲鳴を上げている。それでも、引き金を引く指は止めなかった。血にまみれ、ボロボロに崩れかけた体を引きずりながら、私は殺戮の坩堝から無理やり這い出した。倒れゆく仲間たちを背後に残し、よろめきながら、どうにか地下のセーフハウスへと転がり込んだ。

 周囲は不気味なほど静まり返っている。待てど暮らせど、私の増援が現れることはなかった。

 壁に背を預け、必死に荒い息を継いでいると、不意に声が耳に届いた。半開きの通信室のドア越しに、笹谷のトランシーバーの音声が鼓膜を刺すように響き渡ったのだ。

「ボス、すぐに早美へ支援を回してください!彼女の部隊、敵の主力に完全に包囲されてます!」

 笹谷の声はパニックに陥り、ひどく狼狽していた。

 ノイズ混じりに聞こえてきた成人の返答は、私の全身の血を真冬の木枯らしよりも冷たく凍りつかせた。

「早美はしぶとい。猫みたいに命が九つある女だ、死にはしない。まずは雪見を救出するのが先だ!」

 息が止まった。雪見。成人が拾ってきた、底知れぬ計算高さを持つストリートの孤児。彼女は外縁部で取るに足らない小競り合いの処理をしていたに過ぎない。それなのに、成人はわざと私に偽の地図を渡し、ファミリーの全増援を彼女の元へ集中させたのだ。

「ですがボス、早美が外で死にかけてるんですよ!」

 笹谷が吼えた。

「雪見の安全確保が最優先だと言っているだろうが!」

 成人は頭ごなしに怒鳴りつけた。

「撤退現場をもっと引っ掻き回せ。混乱を引き起こすんだ。俺たちが結婚するはずだった、あの二十一回の時のようにな」

 笹谷はマイク越しに深々とため息をついた。

「本当に、こんな死に直面するような事故を偽装し続けてまで結婚式を阻止するおつもりですか? 彼女はあなたに人生のすべてを捧げてきたんですよ」

「そうするほかない。彼女の両親の件で、俺は宮村の家に命の借りがある。だが、俺が愛しているのは雪見だ」

 成人の声には、一欠片の温度もなかった。

「結婚の話が出るたび、俺はその二十一回すべてをぶち壊してきた。雪見を守り、俺のそばに置いておくためなら、あと百回だってやってやる」

 その言葉は、私の肩に食い込んだままの弾片よりも鋭く、重く私を打ちのめした。

 この二十一回に及ぶ死線——唐突な交通事故、執拗なドライブバイでの掃射、不可解な火災。それらは決して不運の連続などではなかった。私が十年間愛し続けた男が、私と結ばれることから逃げ回るためだけに仕組んだ、巧妙な暗殺計画だったのだ。

 私は叫ばなかった。泣くこともしなかった。

 彼のためだけに盲目的な執着を抱き続けた私の心は、その瞬間、完全に死に絶えた。

 壁にすがりながら真っ直ぐに立ち上がり、私は奥の部屋のドアを蹴り破った。

 戸川静留——この極道一家において最も畏怖される女家長が、デスクの書類の山から弾かれたように顔を上げた。

 私のボロボロに引き裂かれたタクティカルギアと、ブーツの下でゆっくりと広がりゆくどす黒い血だまりを目の当たりにして、彼女の瞳孔が急激に収縮した。

「早美? なんてこと、どうしてこんな姿に?」

 私は何も答えなかった。タクティカルベストから血まみれの指揮官バッジを引き抜き、塵一つない彼女のデスクに重々しく叩きつける。それが、私が自らの権力を返上するやり方だった。

「もう限界です、静留」

 私の体はほとんど彼女のデスクに凭れ掛かっていたが、絞り出した声は残酷なまでに冷徹だった。

「正式に要請します——婚約の破棄を」

 静留はその場に凍りつき、金属バッジの上で両手を微かに震わせた。私が彼女の息子に対してどれほど狂気じみた執着を抱いているか、誰よりも知っているのは他ならぬ彼女自身なのだ。

「早美、血が止まっていないわ。ファミリーの専属医を呼ぶから。成人が今回また何をやらかしたにせよ——」

「罠だと知っていて、雪見を助けるためだけに私をあそこに送り込んだんです」

 私は彼女の言葉を遮り、その目を真っ直ぐに見据えた。

「それに、さっきこの耳で聞きました。過去三年間に起きた、私の命を狙うすべての『事故』は、私と結婚しないためだけに彼自身が仕組んだものだと、彼が口にするのを」

 静留の顔から、さっと血の気が引いた。彼女は私の満身創痍の体を見つめた。かつて私の両親が彼女の息子のために払ったあの究極の犠牲が、一寸また一寸と、重く彼女の肩にのしかかっていくのが目に見えるようだった。

「……わかった」

 静留は低い声で言った。その響きには、砕け散ったような痛ましい羞恥が滲んでいた。

「認めましょう。婚約は破棄よ」

 私は一度だけ頷いた。涙は出ない。ただ、空虚で冷え切った解放感だけがそこにあった。

 きびすを返し、足を引きずりながら指揮センターを後にする。メインホールに出た途端、セーフハウスの重い扉が外から乱暴に押し開かれた。

 成人が大股で入ってきた。その仕立ての良いオーダースーツには塵一つついていない。彼の腕には雪見が抱きかかえられており、彼女の体にはかすり傷一つ、埃一粒すらついていなかった。

 私を見ると、彼はピタリと足を止めた。その視線が私の蒼白な顔と血まみれの体を舐めるように動いたが、彼の目に一瞬よぎったのは罪悪感でも心配でもなく、苛立ちが急激に深まった陰鬱な色だった。

「まだ悲劇のヒロインを気取っているのか、早美?」

 成人は冷笑した。全身から放たれる傲慢さが、部屋の空気ごと押し潰しそうだった。

「まさか、そのちっぽけな擦り傷をダシにして、また結婚を迫るつもりか? 本当に哀れだな」

 雪見は彼の胸に顔を埋め、か弱く怯える小鳥のように彼の腕の中で震えていた。

「成人さん、そんなにキツく言わないで……彼女、本当にひどい怪我をしてるみたい……」

「こんなのはこいつの茶番だ、雪見」

 彼は鋭い声で遮り、私を見下ろした。その目の奥底には、むき出しの嫌悪だけが渦巻いている。

「こいつはいつもこうやって罪悪感を煽り、俺を縛り付けようとするんだ」

 私は一瞬、父の遺したアンティークの拳銃を思い出し、宮村の家が捧げてきた揺るぎない忠誠を思い出し、そして——この男のために灰となるまで燃やし尽くした、私の十年の青春を思った。

 私は成人の目を真っ直ぐに見据えた。紡がれた声はほとんど聞き取れないほど微かだったが、石のように揺るぎなかった。

「お望み通りに」

 私は静かに告げた。

 目に見えるほどの明らかな驚愕が、成人の目の奥を一瞬よぎった。

 これまで、誰よりも結婚を急いでいたのは私だった。死の淵からどうにか這い上がるたび、私が決まって最初にすることは、彼に結婚を迫ることだったのだから。

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