第3章

 はっと目を覚ますと、霞む視界の先に白衣の男が椅子に座り、カルテをめくっているのが見えた。

 私の意識が戻ったことに気づくと、彼はファイルを閉じた。社交辞令は一切なし、用件のみだ。

「気がついたか。執刀を担当した中村だ」

 彼が誰かなんてどうでもよかった。震える手が、今はもう平らになってしまった腹部へと伸びる。そのぽっかりと空いた空虚さに、心臓が止まるかと思った。私はシーツを強く握りしめ、掠れた声を絞り出した。

「赤ちゃん……私の、赤ちゃんは……」

 中村は重苦しい表情で私を一瞥した。

「妊娠三十二週で帝王切開を行った。男の子だ。すでに新生児集中治療室に入っている」

 その安堵を噛みしめる間もなく、彼は付け加えた。

「肺に感染症があった。一時は危険な状態だったが、なんとか持ちこたえた」

 生きている。

 その言葉が電流のように体を貫き、麻痺していた神経に感覚を呼び覚ました。

「死んで……ないんですね?」

 確信が持てず、涙を流しながら問い返す。

「あと十分遅ければ、助からなかっただろう」

 中村は私に水の入ったコップを渡すと、その口調をあからさまに険しいものに変えた。

「廃倉庫の管理人が救急車を呼んでくれたんだ。到着した時、君は虫の息だった」

 彼は言葉を切った。続けるべきか迷っているようだったが、ボロボロの私を見て、冷徹に告げた。

「聞いておいたほうがいい。警察が君の夫に連絡した時、彼はこう言ったそうだ。その大量の血は、君の『お芝居』のための小道具だろう、と。君の気を引くための狂言に騙されるな、痛み止めでもやって帰せ、医療資源の無駄遣いだとな」

 中村はドン、と強い音を立ててコップをテーブルに置いた。

「だが、私が帝王切開を行った時、そこに演技など微塵もなかった」

 その瞬間、私は叫ぶべきだったのかもしれない。泣き崩れるべきだったのかもしれない。

 二十四時間前、私たちは赤の他人だった。私を救ってくれたのは見知らぬ廃倉庫の管理人。職務を全うしてくれたのは見知らぬこの医師。

 それなのに、五年も連れ添った夫は、その血が温かいかどうか確かめようとすらしなかったのだ。

 涙も、怒りも湧いてこなかった。奇妙なほど冷静だった。心の痛みは、昨夜の血と共に流れ出てしまったようだった。

 私はゆっくりと腹部に手を当てた。やはり平らで、もう膨らみはない。だが、すぐ近くで儚い命が懸命に戦っていることはわかっていた。

 終わらせるのよ、胡桃。私は自分自身に言い聞かせた。

「先生、お願いがあります」私は言った。

 中村は片眉を上げ、私の精神状態を値踏みするような視線を向けた。

「私には患者を拒否する権利があるんだがね。特に理不尽な要求をするような――」

「死亡診断書を書いてください」

 彼の言葉を遮り、私はその目を真っ直ぐに見据えた。

「子供は助からなかったことにしてほしいんです。流産だった、と」

 中村の職業的な笑みが凍りついた。彼は目を細め、初めて私という人間を真剣に観察した。彼が見たのは、浮気夫に泣かされる哀れな妻ではない。灰の中から蘇り、復讐を企む女の姿だった。

「それは興味深い提案だ、山崎さん。だがカルテの改竄は――」

「お願いします」

 私は再び遮った。その声には迷いがなかった。

 中村は一瞬沈黙し、新生児集中治療室の方へ視線をやった。そして意味深長に言った。

「父親が治療を放棄した以上、法的に言えば、この子を『生かしておく』のは確かに難しい。心配するな。事務手続きが遅れることくらい、よくある話だ」

 そう言い残すと、彼はベッドの周りのカーテンを引き、病室を出て行った。

 足音が遠ざかり、静寂が訪れたのも束の間、枕元で狂ったように振動するスマホがその平穏を打ち砕いた。

 病室のベッドに横たわっていても、休まる暇すらない。画面ロックを解除すると、ネット上はすでに大騒ぎになっていた。

 真也の部下たちが必死に火消しに走っているようだが、トレンド入りしたハッシュタグまでは抑え込めていない――「#冷血な救助」。

 現場にいた誰かが、写真を撮っていたのだ。

 背景はあの廃工場。写真の中央には、怯える優里を抱きかかえて救急車へ向かう真也の姿。そして、誰もが目を疑う光景がはっきりと写っていた。一刻を争うためか、彼は血の海に倒れている妊婦を、無造作に跨いでいたのだ。

 その妊婦とは、私だ。

 コメント欄は非難の嵐だった。

「人の心がないのか? 相手は妊婦だぞ!」

「瀕死の妊婦を跨いで、かすり傷の女を助けたって? この警官、正気か」

 以前の私なら、真也がネットで叩かれているのを見れば、徹夜してでも彼を擁護し、誤解だと弁明して回っただろう。だが今、そのあまりにも完璧な構図の写真を眺めながら、私は思わず笑ってしまった。

 むしろ撮影者に感謝したいくらいだ。いい気味だ。そのまま晒され続ければいい。

 深呼吸をして、真也のプロフィール画面を開く。メッセージ欄に二文字だけ打ち込んだ。「離婚」。

 親指が送信ボタンを押そうとしたその時、画面上部に突然新着メッセージの通知がポップアップし、私の指を止めた。

 優里からだ。写真が一枚。

 テキストはない。ただ、露骨な挑発だけがあった。

 写真に写っていたのは、病院の特別室だ。真也は、すでに消えかけている薄い赤みが残るだけの優里の手首を、まるで宝物のように大切に包み込んでいる。その表情は優しさに満ちていて、まるで彼女が致命傷でも負ったかのようだった。

 その下の階で、妻が彼の子を産み落とし、死にかけていたというのに。

 返信はしなかった。チャットを閉じ、真也に電話をかけた。

 一度目のコール、切断。

 二度目、切断。

 五度目でようやく、彼は電話に出た。

「胡桃、いい加減にしろよ!」

 真也の怒号が響く。私がどこにいるのかも、子供が無事なのかも聞いてこない。

「よく電話なんてかけてこられるな! 優里が死んだかどうか知りたいのか? 残念だったな、あいつは無事だ! 今、病院にいる!」

 彼の声には、私を罪人として見下す響きが滲んでいた。

「胡桃、お前がやったことは犯罪だぞ! 誘拐は重罪だ! 最後の情けだ、一時間やる。今すぐここに来て優里に謝れ! そうしなきゃ即離婚だ!」

 そこで、優里の弱々しい、涙混じりの声が聞こえてきた。

「真也さん……怒鳴らないであげて……」

「全部私が悪いの……私が被害届を出さなければ気が済むなら、それでいいから……。胡桃さんだって辛いことがあって、気が動転してるだけなの……喧嘩しないで……」

 なんて健気なこと。

 真也の声が瞬時に甘いものに変わって彼女を慰め、私に向き直ると一層凶暴になるのがわかった。

「聞こえたか!? 優里が優しすぎるからって、つけあがるなよ!俺とあいつが先に出会ってたのに、お前にあいつを傷つける権利なんてあるか! 今度という今度は、思い知らせてやるからな!」

 私はスマホを握りしめ、そのあまりに息の合った茶番劇を聞きながら、滑稽さすら感じていた。

 二人がようやく静かになったタイミングで、私は冷静に告げた。

「ええ、離婚しましょう。離婚届はもう郵送してあるわ。ちゃんと署名・押印してね」

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