第4章

 電話の向こうで、数秒間、死のような静寂が続いた。

 真也は明らかに、まだ事態を飲み込めていないのだ。普段は大人しく従順な妻が、まさか自分から離婚を切り出してくるなど、夢にも思っていなかったに違いない。

 その一瞬の驚愕が激怒へと変わる前に、私は迷わず通話を切った。

 着信拒否ボタンの上に指をかざした瞬間、再び画面が明るく点灯した。真也からのメッセージが、嵐のように次々と画面を埋め尽くしていく。

「胡桃、頭おかしいのか? どこにいる!」

「妊娠してるからって調子に乗るなよ? 俺が手を出さないと思ってるのか?」

「警告しておく。ネットのあのふざけた書き込み、今すぐ消せ! お前の正体をバラされたいのか!」

「ガキのことだってそうだ。何かあっても俺は知らないからな! 泣いて土下座しても許さねえぞ!」

 並んだ文字を目にした瞬間、胸の奥にズキリと鈍い痛みが走った。

 一度は死に、奴の本性を見抜いたはずなのに。それでも、長年愛し続けた男であることに変わりはないのだ。

 だが、その痛みもほんの一瞬のこと。

 私はメッセージには一つも返信しなかった。ただ冷徹に「すべて選択」で削除し、暗記できるほど見慣れたその番号を、着信拒否リストへと放り込んだ。

 病室の外を、看護師のワゴンが楽しげな噂話と共に通り過ぎていく。

「……ねえ聞いた? 最上階の特別室の患者さん、超ラッキーだよね」

「本当それ。山崎さんってば、あの優里って子のために星付きレストランのシェフを呼んで特別食を作らせたらしいよ。しかも『あーん』して食べさせてるんだって」

「羨ましすぎ。まさに真実の愛ってやつ?」

 私は視線を落とし、傷跡の残るぺちゃんこになった腹部を見つめた。

 この体はつい先ほど、生きた我が子を産み落とすために切り裂かれたばかりだ。それに比べて優里はどうだ? あの現場で彼女が負ったのは、ほんのかすり傷。ただの浅手だ。

 なんて滑稽な話だろう。

 本物の母親は冷え切った病院食をすすり、無傷の女はシェフの料理に舌鼓を打っているなんて。

 その歪んだ皮肉が喉に刺さった棘のように感じられ、息をするのさえ苦しかった。

 深夜、中村先生がそっと病室に入ってきた。

「子供は移動させた」先生は声を潜め、一枚のメモを私に手渡した。「別の施設の個室NICUに移した。これが住所と連絡先だ。極秘にしてあるから、山崎真也の手もそこまでは及ばないはずだ」

 私はその紙切れを、まるで命綱かのように強く握りしめた。

「ありがとうございます、中村先生」

 見知らぬ住所を見つめていると、ようやく胸のつかえが取れたような気がした。

 少なくとも、あの子は無事だ。

 生きていて、あの汚らわしい男の手の届かない場所にいてくれさえすれば、それだけで充分な救いだった。罪のない命には、もっと清らかで新しい始まりが必要なのだ。

 病棟が寝静まった頃、私はSNSを開いた。

 そこは、私への罵詈雑言で溢れかえっていた。

 警察署の発表は、誘拐事件の背景に「家庭内のトラブル」があったことを匂わせる、意図的に曖昧なものだった。

 そしてコメント欄には、真也の公式アカウントがトップに固定した動画があった。

 やつれた表情の真也。その背景には、包帯を巻いてはいるが完璧に整った様子の優里が映っている。

 投稿文にはこうあった。「警察官としてこの街を守ることはできても、嫉妬に狂った女の目を覚まさせることはできない。罪のない者を傷つける――それだけは、決して許せない一線だ」

 反応は劇的だった。

 真也の巧みな印象操作により、誰もが優里を無垢な被害者だと信じ込み、私を嫉妬に狂った復讐の鬼だと決めつけていた。

「旦那の恩人を襲うとかありえなくない? この女マジで腐ってる!」

「待って、自分も産後だろ? どんな神経してんの」

「因果応報だね。ざまあみろ!」

 殺害予告まで含む悪意に満ちた言葉の数々を目で追いながら、私は不思議なほど落ち着いていた。

 数日もすると、包帯を交換に来る看護師たちさえも、私を軽蔑と嫌悪の入り混じった目で見るようになった。職務上の義務がなければ、とっくに私をこの部屋から追い出していただろう。

 だが、私は一切の弁明をしなかった。

 ただ黙って、暗号化されたクラウドストレージを開き、あるバックアップデータの存在を再確認しただけだ。それは、あの廃倉庫で優里が誘拐犯と交わしていた取引の、決定的な録音データだった。

 退院の前日、赤ちゃんの手配を済ませた後、私は真也の着信拒否を解除した。

 送ったメッセージは一つだけ。「明日午前9時。家庭裁判所。離婚届に署名して」

 三十秒もしないうちに、電話がかかってきた。

 出た瞬間、受話器から怒号が飛び出した。

「逃げ回るのは終わりか? 胡桃、よくもまあ離婚なんて口が叩けたもんだな!」

「チャンスはやっただろう! 泥沼にしたのはお前だ! これでお前の本性は世間に知れ渡ったんだぞ!」

「優里が心優しい子で、お前を庇ってくれなきゃ、とっくに逮捕させてるところだ!」

「ああ、離婚してやるよ! だが言っておくがな、あのガキが死んだら清々する。もし生きてたとしても、父親のいない哀れな私生児だ! 全部お前のせいだからな!」

 私が言い返すよりも早く、彼は電話を叩き切った。

 翌朝、家庭裁判所の前。

 風が冷たく切りつけ、コートの下の治りかけの傷が疼いた。私は服の合わせをきつく引き寄せ、手にした書類を強く握りしめた。

 九時きっかり。

 一台の車が止まったが、降りてきたのは真也ではなかった。

 高級なコートに身を包み、メイクも完璧な優里だった。

 彼女はサングラスを外すと、私の耳元に顔を寄せた。その瞳からは、軽蔑と勝ち誇ったような傲慢さが滴り落ちていた。

「胡桃さん、言ったでしょ? 私には勝てないって。あなたの旦那さん、あの正義の刑事さん……私の前じゃ、ただの忠実な犬ころよ」

 彼女の視線が私のお腹へと滑り、わざとらしい同情の色を浮かべた。

「前回は残念だったわね」彼女は猫撫で声で囁いた。「あのお腹の中の小さな邪魔者……息をする前に冷たくなっちゃって」

 その瞳が鋭く光り、笑みがどす黒いものへと深まっていく。「でも今回は……自分で始末したの?」

 私の世界が凍りついた。

 前世の記憶。死産。床に叩きつけられた小さな体。

 闇に葬ったはずの記憶が、吐き気とともに込み上げてきた。もはや曖昧な悪夢ではない、鮮明な映像として。怒りに歪んだ真也の顔。彼が自らの手で地面に叩きつけた、息をしていない赤ちゃん。

 あれは私が死んだ後の出来事だ。私と、あの部屋にいた悪魔たちしか知らない真実。

 なぜ彼女がそれを知っている?

 まさか――。

前のチャプター
次のチャプター