第3章
彼は黒いスーツに身を包み、一歩、また一歩と極めて重厚な足取りで近づいてきた。泥と灰にまみれた私の顔へと視線が落とされたその瞬間、彼の瞳の奥底が激しく揺らいだのを、私ははっきりと捉えた。驚愕、そして、無理やりねじ伏せられた何らかの痛切な感情。だが次の瞬間には、彼の顎の筋肉がぎゅっと引き締まり、その眼差しは再び絶対零度の氷へと変わった。
「星野凛さん」
彼は身を屈め、地を這うような低い声で言った。
「三年だ。ようやく、あなたを見つけ出したぞ」
唇がガチガチと激しく震え、胸の中の心臓が見えない手に鷲掴みにされたかのように軋んだ。三年前、私はウェディングドレス姿のまま彼のもとから逃げ出した。脳裏に焼き付いているのは、血の海の中でナイフを握りしめ、女の死体を見下ろして微笑む彼の写真だけだ。数え切れないほどの夜、もう二度とこの先の人生で彼と関わることがないようにと祈り続けてきたというのに——まさか、地獄の底から這い上がってきたばかりのこの瞬間に再会を果たすことになろうとは。
「ああ、どうしよう! 星野凛!」
悲痛な叫び声が、周囲の喧騒を切り裂いた。白石舞は規制線の外で制止する警察官を振り切り、猛烈な勢いで飛び込んでくると、私を力いっぱい抱きしめた。
「怪我はないの? いったい何があったの?」
彼女は全身を小刻みに震わせ、その涙が私の首筋にぽたぽたと落ちる。
「どこの誰がこんな酷いことを——もし九条司が知ったら……」
「私は大丈夫」
流木にしがみつくように、私は彼女の両手を握り返した。この世界で、母を除けば白石舞こそが私の最も信頼する人間だった。彼女は九条司の義理の妹でありながら、この二年間、本当の姉のように私を庇い、守り続けてくれたのだ。
「お話し中すみません」
一人の刑事が歩み寄り、丁寧だが拒絶を許さない口調で告げた。
「星野さん。今回の放火事件の容疑で、署までご同行願います」
「この子は死の淵から逃れてきたばかりなんですよ!」
白石舞は激怒した雌獅子のように私の前に立ちはだかった。
「今必要なのは医者です、取り調べなんかじゃありません!」
白石舞の背後から視線を上げ、刑事の肩越しに目をやると——三歩離れた場所に、神崎竜也が立っていた。両手をポケットに突っ込んだまま、何も言わず、ただ静かに私を見つめている。その瞳には一切の感情が読み取れなかったが、無言の、息が詰まるほどの確信に満ちていた。まるで獲物が自ら罠にはまるのをその場でじっと見届ける狩人のように。
私は視線を外し、白石舞に向かって小さく首を横に振った。
「大丈夫。行くわ」
二人の刑事にパトカーへと促される。白石舞はまだ大声で抗議していたが、私にはもう抗う気力すら残されていなかった。後部座席に漂う革の匂いと、後ろへ後ろへと流れていく街のネオンサイン。それらが極度の恐怖と疲労の中で混ざり合い、グロテスクで奇妙な無声映画のように感じられた。
取調室には、古びたコーヒーと消毒液の匂いが充満していた。向かい側には取調官の橘直人が座っている。神崎竜也は部屋の隅に腰を下ろし、指を絡ませていた。その姿は傍観者というより、処刑を見届ける立会人のようだった。
「さあ、話してもらおうか、星野さん。なぜ屋敷を燃やした」
私は深く息を吸い込み、震える両手を机の下に隠して、事の顛末を語り始めた。母が死の間際に残したマトリョーシカのこと。『屋敷を燃やせ』と書かれたあのメモのこと。クローゼットに隠された扉、ホルマリンの匂いが立ち込める隠し部屋、そして、真鍮のフォトフレームに額装されて壁に飾られていた女の生皮のこと。
取調室は、死んだような静寂に包まれた。
傍らの調書を取っていた若い刑事が、がキーボードを叩く手を止め、怯えと哀れみの入り混じった目で私を観察しているのがわかった。その視線には痛いほど見覚えがある——幼い頃からずっと、田舎町の人々が母に向けていたのと同じ眼差しだ。
今度は、私の番というわけだ。
「私が狂っているとお思いでしょう」
自嘲気味に口角を歪め、私は取調官の目を真っ直ぐに見据えた。
重い沈黙が降り下りる。
部屋の隅で、椅子が微かに軋む音がした。
「九条司は今、どこにいる」
神崎竜也の声だった。低く、急ぐでもなく遅くもない。だがそれは、淀んだ死水に投げ込まれた石のように波紋を広げた。取調官は無意識に彼の方を振り向いたが、制止はしなかった。まるで、彼が口を挟む権利をとうに黙認しているかのようだった。
「彼は静岡の系列病院へ当直の交代に行って、緊急事態で足止めを食らって……」
私の声は次第に小さくなっていった。
「緊急事態とは何だ。どこの病院だ。同行者は誰だ」
矢継ぎ早に放たれる、機関銃のような問い。
「私は……」
喉が見えない手に締め付けられたように詰まる。
何も、知らない。
恐怖が冷たい毒蛇となって、脊髄を這い上がり脳髄へと侵入してくる。毎日私に優しく接し、すべてのトラウマを包み込んでくれたあの完璧な婚約者の本当のスケジュールを、私は何一つ知らなかったのだ。
顔を上げ、この取調室で初めて神崎竜也の目を正面から見つめ返した。彼は背もたれに寄りかかり、鏡のように静まり返った表情を浮かべていたが、その瞳の奥には緻密で鋭利な何かが潜んでおり、私の内面をすっかり見透かしているようだった。
「十五分休憩する」
橘はファイルを閉じて立ち上がり、ひどく静かな動作で取調室のドアを閉めた。
廊下の突き当たりにある休憩室。私は紙コップを両手で包み込むように持っていたが、歯の根は未だに合わずガチガチと鳴っていた。ドアが押し開けられ、目を真っ赤に腫らした白石舞が入ってくる。彼女は手を伸ばし、私の乱れた髪を耳の後ろへと優しくかけてくれた。
「怖がらないで。弁護士はもう向かっているし、九条司にも連絡がついたわ——彼、夜通しで海外へ高飛びするチャーター機を手配して、今にも気が狂いそうなほど焦っていたわ」
彼女の瞳には強い決意が宿っていた。
「九条の家がすべて上手く処理してくれる。あなたに理不尽な思いなんて、絶対にさせないから」
この不条理で恐ろしい夜において、九条一族は本当に私の唯一の避難所であるように思えた。少なくとも、白石舞だけは。
その時、廊下から極めて微かなバイブレーションの音が聞こえた。
半開きのドアの隙間から、神崎竜也がスマートフォンを取り出し、うつむいて画面に視線を落とすのが見えた。
ほんの一瞥だった。
廊下全体の空気が、一瞬にして真空に引き抜かれたかのように錯覚した。彼が弾かれたように顔を上げる。常に無表情だったその顔が、一気に険しい底知れぬ暗さを帯びた。彼は私を見てはいなかった。刃のような視線は、ぞっとするほどの殺意を孕み、ドアの隙間をすり抜けて、彼に背を向け私に優しく語りかけている白石舞の背中へと真っ直ぐに突き刺さっていた。
私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
膝の上に置いていたスマートフォンの画面が、ぼんやりと光を放つ。
神崎竜也からのメッセージだった。
『黒川剛の息子は、三年前に海外で性別適合手術を受け、戸籍を偽造して現在の白石舞と名乗っている』
