第2章
前触れなど、何ひとつなかった。
優しさも、慰めも。
「っ……!」
長いあいだ潤いを失っていた奥が裂けるように痛み、杉山夕晴は身をよじって逃れようとする。だが橘陸斗に情けなど欠片もない。衝撃のたび、まるで芯まで貫き切ると言わんばかりの苛烈さで責め立てた。
彼は彼女の内で暴虐な欲望を吐き出しながら、耳元に唇を寄せる。もっとも毒のある言葉で、尊厳を踏みにじるために。
「そんなに俺の精血が欲しいのか。あの雑種を救うために。なら、誠意を見せろ」
低い声に滲むのは、獣じみた占有の熱。
彼は壊れかけた彼女の身体など顧みず、人狼の原初の本能にすべてを明け渡していた。押し潰すような侵入が繰り返されるたび、ほとんど破壊に近い狠さが走る。――この強引さで、彼女の魂に根を張った拒絶ごと塗り潰そうとでもするかのように。
体液に血が混じり、太腿の付け根を伝って、ぽたり、ぽたりと床へ落ちた。
杉山夕晴は虚ろな瞳で天井を見上げる。焦点が、ゆっくりとほどけていく。
星ちゃんは、あと三か月。
救えるのは、この男だけだというのに――その男がいま、彼女を最下層の娼婦みたいに壁へ縫い付け、辱めている。
目尻からこぼれた一滴が、冷たい土へ音もなく落ちた。
どれほど弄ばれたのか分からない。
長い時間の果て、ようやく熱が身体の奥へ流れ込んだ。
白い肌には噛み跡が散り、小さな入口は赤く腫れ、血が滲んでいる。目を背けたくなるほど痛々しい。
かすかな自己治癒がなければ、この乱暴な交わりの中で死んでいてもおかしくなかった。
杉山夕晴は重たい瞼を押し上げ、乾いた唇をわずかに動かす。
「橘陸斗……星ちゃんは、本当にあなたの実の娘よ。検査だって……」
「黙れ!」
橘陸斗は彼女を放り出し、壁際の鉄の棚へ歩く。暗紫の長鞭を引き抜いた。
それを認めた瞬間、杉山夕晴の瞳孔がきゅっと縮む。
狼毒草を編み込み、精鋼の返しを混ぜた骨鞭。狼毒草は狼族の禁忌。毒は皮肉を腐らせるだけじゃない。狼魂を焼き尽くすための凶器だ。
「嘘が好きなら、教えてやる。群れのルールってやつをな」
冷えた声と同時に、骨鞭が細い身体へ叩きつけられた。
「ぁあ――っ!」
びしり、と皮膚が裂け、暗紫の毒が傷口から血へ潜り込む。
意識の奥で狼の遠吠えが弾けた。狼魂――幽影。
もともと弱っていた狼魂が、狼毒草の毒に食われていく。頭の中で、のたうち回るような痛みが広がった。
「陸斗……やめて……お願い……」
全身が痙攣し、声がちぎれる。
だが橘陸斗は止めない。二発、三発。
返しが肉を抉り、飛び散る血と、狼毒草の枯れた臭いが地下を満たしていく。
やがて杉山夕晴は叫ぶ力すら失い、幽影も瀕死となって声を失った。
狼魂の損傷は反動となり、顔じゅうの穴から血が溢れ、視界が赤に染まる。
二十発。
身体にまともな肉が残らなくなるまで、橘陸斗は手を止めなかった。
骨鞭を床へ放り、ポケットからハンカチを取り出す。指についた血を、妙に丁寧な手つきで拭って――その動きが、ふと止まった。
胸の奥。予兆もなく、鋭い刺痛。
橘陸斗は眉を寄せ、苛立ちを噛み潰す。――このクズのせいで気分を台無しにされた。それだけだ、と。
壁の機構を押すと、銀の鎖がじゃらりと音を立てて外れた。
支えを失った杉山夕晴の身体が床へ叩き落ちる。傷口が地面にぶつかり、びくりと痙攣した。それでも彼女は唇を噛み、声を飲み込む。
「俺の屋敷から消えろ」
橘陸斗は拭い終えたハンカチを彼女の顔へ投げ捨て、背を向けて懲罰室を出ていった。
杉山夕晴は血溜まりの中で丸まり、呼吸するたび全身が悲鳴を上げた。冷汗が背を伝う。
震える手で破れた衣をかき集め、どうにか身に巻き付ける。
力が、抜けていく。狼毒草の毒が自己治癒を抑え、傷はまだじくじくと血を滲ませていた。
――ここで死ねない。星ちゃんが待ってる。
鉄の枠に縋り、這い上がろうとした、そのとき。
隅へ投げられたスマホが、けたたましく鳴った。病院からの番号。
力の入らない指で何度も画面を擦り、ようやく通話が繋がる。
「杉山さんですか。お嬢さんの杉山星が突然40度の高熱で、鼻血も止まりません。いつ急変してもおかしくない状態です。すぐ来てください!」
狼医の声が切迫していた。
「……い、今行きます……! お願い、先に……一番いい薬で……」
手のひらが震え、言葉が息にほどける。
「とにかく急いで!」
通話が切れた。
娘の弱々しい笑顔が脳裏を掠める。
「……死ねない……星ちゃんを、死なせない……」
杉山夕晴は歯を食いしばり、立ち上がった。
一歩ごとに血が落ち、床に赤い足跡が続く。懲罰室を出て、階段を這うように上がると、地上の風が破れた衣の隙間へ突き刺さった。
裸足で雪を踏む。二歩も進めば転ぶ。痛みで視界が黒く滲む。
狼の姿になろうとしても、毒に力を封じられ、変身できない。
この身体で、数十キロ先の病院まで辿り着けるはずがない。
庭に、黒いマイバッハ。
本館の階段下で、運転手の中村さんが車体を拭いていた。
杉山夕晴は縋りつくように雪へ手をつき、這って進む。
「中村さん……中村さん……!」
声はかすれ、雪の上に長い血の筋だけが伸びた。
中村さんが振り向き、血だらけの女を見て手を震わせる。
「ルナ……?」
その顔を認め、息を呑んだ。
「中村さん、お願い……病院へ……星ちゃんが……もう……」
血に濡れた手で車輪へ縋りつき、必死に見上げる。
本館の扉が開いた。
橘陸斗が大股で出てくる。屈強な人狼の衛兵を二人、従えて。
車輪の脇に這う杉山夕晴を見て、橘陸斗の目に露骨な嫌悪が走った。
「まだ消えてなかったのか」
「陸斗……!」
彼女は向きを変え、雪の上を引きずるように近づく。
「星ちゃんが危ないの……送って……お願い……!」
橘陸斗は見下ろし、口角を嘲るように上げた。
差し出された手を、軍靴で容赦なく蹴り払う。
「捨ててこい」
衛兵へ淡々と言い放つ。
「二度とこんなものを近づけるな」
二人が即座に動いた。
「やめて……陸斗、そんな……!」
喉が裂けた声で叫ぶが、左右から腕を掴まれ、傷などお構いなしに引き起こされる。次の瞬間、門の外へ叩き捨てられた。
「二度と来るな! アルファが言った。次は脚を折るぞ!」
鉄門が、ゆっくり閉じていく。
吹雪が彼女の身体を叩く。衣もまともにない血塗れのまま、山道に取り残された。
冷えが骨髄まで染み込み、呼吸は薄くなる。
遠くに街の灯が揺らめいているのに、彼女のために点る明かりは一つもない。
――星ちゃん……ママは……もう……。
雪を掻く指が深い跡を残し、涙が一筋こぼれた。
次の瞬間、それは氷になった。
