第3章
刺すような冷気が積もった雪から骨の隙間へ染み込み、杉山夕晴の視界は滲み始めていた。
助けて……
胸の奥で、掠れた祈りが喉を裂く。
幽影、化けさせて……
『正気か! 狼毒が回ってる!』
幽影の声は、震えを抑えきれない。
『狼毒草の毒が血に入ってるんだ。無理に変身すれば、毒が暴れて生き地獄になる!』
「それでも……やるしかない!」
夕晴は唇を噛み、血の味と一緒に言葉を吐き出した。
「星ちゃんが……待ってるんだ!」
杉山夕晴は残る狼魂の力をすべて解き放ち、強引に変化へと踏み切った。
ガキン――
静まり返った雪の夜に、骨が砕ける音が炸裂する。
夕晴が頭を反らし、喉を引き裂くような咆哮を上げた瞬間。
高速道路の上に、全長三メートル近い銀灰の巨狼が現れた。
意識の海で幽影が悲鳴を上げる。毒に灼かれる痛みが魂を締め上げ、巨狼の全身がびくり、びくりと痙攣した。
それでも夕晴は牙を噛み締め、後脚で雪を蹴る。
数十キロ先の市街地へ――ただ前へ。
風雪が傷口を抉り、ずきん、と脳髄まで刺さる痛みが何度も走った。
雪面には、真紅の爪痕が点々と連なっていく。
もっと……速く……
意識はほどけていくのに、母狼の本能だけがこの壊れかけた躯体を鞭打った。
市中心部、狼族附属病院。
血肉の塊みたいな雌狼が、どさりと床へ叩きつけられた。ずるずると数メートル滑り、金属の待合椅子を一列、がしゃんと薙ぎ倒す。
ホールに悲鳴が波のように広がった。
雌狼はびくりと二度、痙攣し――獣の形を保てない。
ぎち、ぎち、と歪んだ骨の擦れる音を立てながら、人の姿へと押し戻されていく。
異変を聞きつけ、狼医の江崎渚が人垣を割って駆け込んだ。
血溜まりの中の身体を認めた瞬間、彼の呼吸が止まる。
「夕晴?!」
江崎渚は目を真っ赤にして膝をつき、手を伸ばしかけ――抱き上げる場所がどこにもないことに気づき、硬直した。
傷の端から端まで、返しが抉った腐った肉が残り、皮膚はめくれて黒ずんでいる。
鼻を突くのは、狼毒草特有の枯れた臭気。
「くそ……!」
江崎渚は救急箱を引き裂くように開け、銀管の注射器を震える指で掴む。高濃度の解毒剤を、躊躇なく一管押し込んだ。
効き目は早かった。
狼毒がほどけると同時に、杉山夕晴の自己治癒が動き出す。
胸の中心から灰銀の光が滲み、裂けた皮膚が目に見える速さで塞がり、かさぶたへ変わっていく。
江崎渚の目元が熱くなった。今度こそ抱き上げようとした、そのとき。
腕の中の夕晴が、ゆっくりと瞼を開く。
滲んでいた焦点が合い、目の前の顔を捉えた。
江崎渚。共に生き、共に死にかけた友。
夕晴は身を起こそうとした。
「動くな!」
江崎渚は強い力で押さえ、声を張り詰めさせた。
「重傷だぞ!」
杉山夕晴は彼の袖を掴み、乾いた喉で、掠れた音を絞り出す。
「連れて……行って……星ちゃんに……会わせて……」
江崎渚の胸が詰まる。目の前の彼女は、崩れた人形みたいだった。
「お前、狂ってるのか。立つことすら――」
「医者が言った……星ちゃんの狼魂枯渇症が発作だって」
夕晴は逆に彼の手首を掴み、ありったけの力で縋る。
「お願い……会わせて……」
江崎渚は説得の言葉を飲み込んだ。
「……分かった」
低く答え、彼女を横抱きにする。
「連れていく」
集中治療室の前。ガラス越しに、杉山夕晴は病床の娘を見た。
小さな身体に何本も管が繋がれ、鼻腔には止血綿が詰められている。それでも赤い糸がじわりと滲んでいた。
「心配するな。高熱は下がったし、鼻血も止まった」
江崎渚が静かに告げる。
「今は落ち着いてる。ただ……橘陸斗の精血を早く手に入れないと」
橘陸斗の精血――
それがどれほど欲しいか、自分が一番知っている。けれど……。
夕晴は袖で顔の血汚れを拭い、かすかな苦笑を押し殺して扉を開けた。
母の気配を感じ取ったのか、星ちゃんが辛そうに目を開く。
「……ママ……」
「うん。ママ、ここにいる」
夕晴はベッド柵に頬を寄せ、無理やり笑みを作った。
星ちゃんは眼球をゆっくり動かし、夕晴の背後――空っぽの出入口を見つめる。
しばらく見て、琥珀色の大きな瞳に涙が溜まった。
「ママ……パパは?」
「パパは忙しいの」
夕晴はできるだけ明るい声を演じる。
「星ちゃん、知ってるでしょう。パパは群れのアルファだもの。忙しいのが終わったら、すぐ来て助けてくれる」
星ちゃんの口元がきゅっと歪み、涙が溢れ出した。
「ママ、うそ……みんな言う……わたし、雑種だって……」
胸が裂けそうになった。夕晴は傷の痛みも忘れて、娘を抱き締める。
「うそ。あの子たちが言ってるのは全部うそ」
耳元で繰り返す。
「星ちゃんは雑種なんかじゃない。パパとママの宝物。いつかパパが迎えに来て、意地悪したやつは全部追い払う……」
母の腕の中の温度に安心したのか、星ちゃんは泣き声を細くし、やがて眠りへ落ちていった。
そのとき、江崎渚が入ってきて、夕晴の手首を掴む。
「やめ……」
抵抗する間もない。彼は強引に抱え上げ、救急室へ連れていった。
救急室で、江崎渚の目には怒りが渦巻いている。
「脱げ」
杉山夕晴は空っぽの目で立ち尽くす。
「渚、私、平気。星ちゃんのところに――」
「どこが平気だ!」
江崎渚は珍しく悪態を吐き、直接手を出した。凝血と汚れで固まった破れた外套を、はさみでざくりと切り裂く。
布が落ちた瞬間。
重傷に慣れているはずの江崎渚でさえ、目を赤くした。
傷は塞がりかけている。だが背には二十筋の鞭痕が交差し、全身には噛み跡の青黒い痣。下半身はさらに目を覆う惨状で、乾いた体液と血の痂皮が、アルファの暴虐な匂いを残している。
江崎渚は奥歯を軋ませた。
「橘陸斗は……目が潰れてる狂狼だ」
夕晴は何も返さず、治療台にうつ伏せになった。
江崎渚の手に任せ、黙って清拭と処置を受ける。
――処置が終わった、その直後。
廊下の向こうから、少女の苦痛に満ちた泣き声が響いた。
杉山夕晴の全身が凍りつく。
江崎渚を突き飛ばして飛び出した。
「星ちゃん!」
「くそっ」
江崎渚もすぐ追う。
廊下は騒然。集中治療室の扉が開け放たれていて――中は、空だった。
「星ちゃんは!? 私の子はどこ!」
夕晴は看護師の肩を掴み、目を血走らせる。
看護師は顔面蒼白で言葉を噛んだ。
「さ、さっき……杉山雨音さんが、橘家の近衛を二人連れて押し入って……私たちを外に出して……星ちゃんを抱えて行って……テラスへ……」
杉山雨音。杉山雨音――異母姉。
夕晴の血が冷え切り、よろめきながらテラスへ走った。
3階のオープンテラス。
縁に立つのは杉山雨音だった。
仕立てのいい純白のカシミヤコート。長い巻き髪が風に煽られて踊る。
その腕の中には、薄い病衣のままの星ちゃんが、きつく抱えられていた。
「ママ……」
息が詰まり、星ちゃんが弱く呻く。
「杉山雨音!」
夕晴は転がるように駆け寄った。
「何してるの! 星ちゃんを返して!」
雨音は、みじめに血で汚れた夕晴を見て、くすくすと笑う。
「子供を取り返しに来たの?」
笑いながら、星ちゃんを手すりへ押し付ける。
小さな身体の半分が、すでに外へ乗り出していた。
手を緩めれば、下は十数メートル。コンクリートの地面。
「やめて……お願い……!」
夕晴の膝が崩れ、床に叩きつく。必死に額を打ち付けた。
「お姉ちゃん、私が憎いなら私を殺して! 星ちゃんは関係ない!」
「これは、陸斗と私の子」
雨音は狂ったような顔で星ちゃんの頬を撫でる。
「杉山夕晴、あんたみたいなクズが、家族の再会を邪魔しないで」
「本当は狂ってなんかないんでしょう!」
夕晴は喉が裂けるほど叫んだ。
「あの動画はあなたが捏造した! 遺伝子検査の報告書も改ざんした! 雨音、陸斗が欲しいならあげる! 私と星ちゃんはこの街から消える! だから返して……!」
雨音の瞳に、愉悦がきらりと走る。
彼女はわずかに身を屈め、息を吹きかける距離で囁いた。
「杉山夕晴。あんたには、生き地獄がお似合い」
言い終えた瞬間――雨音の指が、ゆっくりと解けた。
「やめて――!」
夕晴の悲鳴が、吹雪にちぎれる。
星ちゃんの身体が支えを失い、まっすぐにテラスから落ちていく。
「ママ!」
か細い呼び声は、風雪に一瞬で掻き消された。
杉山夕晴は狼魂の力を根こそぎ掻き集め、ありえない速度で手すりへ突っ込んだ。
指先が、病衣の端をかすめる。
――掴めない。
何ひとつ、手の中に残らなかった。
