第3章
黒いSUVがエンジンをかけた。阿部蓮はサングラス越しに、斜め向かいに立つ少女を見やり、眉間をわずかに寄せる。次いで高橋詩織へ言った。
「伝えとけ」
高橋詩織は腕の中の荷物を抱き直し、こくりとうなずく。
「はい。お兄ちゃん、気をつけて」
車はくるりと向きを変え、そのまま外へ走り去った。
高橋詩織はその場で見送り、瞳に残った名残惜しさをそっと引っ込めると、こちらへ歩いてくる。佐藤美咲はそれを見て、慌てて鈴木明里の腕を引いた。明里は振りほどこうとしたが、さっきの美咲の顔を思い出したのか、結局そのまま引かれるに任せた。
最初から最後まで自分を踏み潰してきた「姉」を前にすると、美咲はどうしても身構えてしまう。届きようのない場所にいる相手を見上げるしかない、あの無力感。あれが、ずっと美咲を縛ってきた。
あの頃だってそうだ。必死で勝ち取ろうとした役、レッドカーペットへの招待、有名雑誌の撮影――。
美咲が歯を食いしばって掴みにいったものを、詩織はふわりと手を伸ばすだけで手に入れる。ニュースはいつも二人を並べて比べ、詩織の話題が出た直後には、決まって美咲のスキャンダルが続く。示し合わせたみたいに。
そんな比較の中に長く置かれれば、感情が良いはずがない。むしろ「一度負けたら二度と這い上がれない」みたいな恐怖が、じわじわと骨に染みつく。
だから、目の前に立たれるだけで緊張する。
残りの三人は面白がるように美咲を眺めていた。美咲が息を吸い込み、口を開こうとした、その前に――高橋詩織がすでに目の前で足を止めていた。
腕に抱えているのは本が二冊。さっき阿部蓮が渡してきたものだ。詩織は小首をかしげ、にこりと笑う。
「美咲ちゃん。お母さん、ちょっと具合悪いみたい。スマホにかけても出ないって言ってたから、折り返してあげて?」
詩織が大学一年のときに撮ったドラマが、今年の初めに放送された。二番手の女性役は最後に退場したものの、妙に愛されるキャラで、詩織は一気に名前が広まった。
美人の多いこの学校でも「学園一」と言われるだけの顔立ち。しかも大事に育てられた艶がある。四人の前に立たれるだけで、空気ごと塗り替えられてしまう。
美咲ははっとして聞き返す。
「……え、ママ、どうしたの?」
詩織は柔らかく笑ったまま。
「咳が出るって。昨日も電話したのにずっと出なかったって言ってたよ。スマホ、どうしたの?」
美咲はポケットと鞄を探ったが、手に当たらない。少し間を置いて答える。
「寮に置いてきちゃった。取りに戻る。……ありがとう、詩織さん」
詩織は一瞬だけ目を瞬かせた。美咲がこんなに丁寧に言うなんて。
けれど、すぐに気に留めなくなり、いつもの調子で促す。
「うん。早く折り返してあげて。心配するから」
「うん」
美咲はうなずき、鞄を背負って駆け出した。半分ほど行ったところで振り返り、鈴木明里に叫ぶ。
「明里、美人さん! ごはん買っといて!」
明里が噴き出すように言い返す。
「誰が買うか! 図々しい!」
そう吐き捨てると、明里は彩と真由を引っ張って、ぷりぷりしながら行ってしまった。
美咲は母のことが気がかりで、寮まで一気に走った。部屋に飛び込み、あちこち探して、ようやく引き出しの奥でスマートフォンを見つける。
手に取ると、電源が落ちていた。
椅子に腰を下ろし、荒い息を整えてから電源を入れる。母の番号を探して発信する。呼び出し音が鳴るたび、胸がきゅっと縮んだ。
美咲は片手で目元を覆った。
前世、佐藤恵子は美咲のために心を削った。最初は恵子のために、美咲が「阿部家でどう立ち回るか」を考えた。けれど美咲が見捨てられたあと、今度は恵子が阿部誠の前で何度も取りなしてくれた。
争いを好まない人だったのに、美咲のせいで性格はずたずたになった。もともと誠は恵子を可哀想だと思っていた。だが、何度も何度も口添えが続けば、枕元の言葉だって効かなくなる。
娘が外で苦しんでいるのに、誰も助けてくれない。そんな心配が積もって、恵子の身体はどんどん弱っていき、病気がちになり――ほどなく、逝った。
通話の向こうから、柔らかな女の声。
「美咲? 美咲なの?」
美咲は一気に目が熱くなり、鼻の奥がつんとした。声を落として答える。
「ママ……うん、私。体、少しは良くなった?」
恵子はその声を聞いて、ほっと息をついたように笑う。
「だいぶ良くなったよ。大丈夫」
そう言った直後、向こうでこもった咳が続く。美咲はすぐに分かった。嘘だ。きっと良くなんてない。
美咲は目をこすりながら言う。
「ママ、週末休みだから帰るね。会いに行く」
恵子は少し迷う。
「でも週末……阿部のおじさん、帰ってくるって。私がそっちに行こうか?」
「ううん。私が行く。阿部のおじさんが帰ってくるなら、帰ってくればいいじゃん」
あの冷たい大物が怖くないわけじゃない。けれど前世で、もう十分怖がった。今世は、意地を張ってばかりの自分をやめると決めた。
そもそも阿部家には美咲の部屋がある。恵子に外で会わせたら、誠に知られたとき――「美咲は家から心が離れている」と思われかねない。
恵子は嬉しそうで、それでも心配そうだった。
「帰ってくるなら、ちゃんと大人しくしてるのよ」
「うん。大人しくする」
恵子が恐れているのは、美咲が別荘で余計なことを口にして、誰かに聞かれ、それが阿部蓮や阿部誠の耳に入ることだ。
向こうでまた咳がこぼれた。恵子は口元を押さえて、苦しそうに息を整える。美咲の目はますます赤くなる。養母に、前世の自分は借りを作りすぎた。
「ママ、私ごはん行かなきゃ。切るね」
「うん。週末、待ってるね」
恵子の声は急にかすれていた。痰が絡んだのだろう。美咲は通話を切り、薬でも買えないかとスマートフォンを眺めた。
けれど阿部家にはかかりつけ医がいる。薬だって不足しない。買ったところで無駄かもしれない。それでも買いたかった。せめて、できることをしたかった。
画面をスクロールしていると、不在着信が三、四件。表示は「文彩堂ライブ配信ディレクター」。
そこでようやく、美咲は自分がなぜ電源を切ったのかを思い出した。
前世の美咲は売れるために、大学一年からネット配信を始めた。阿部誠の後妻たちは大々的に宣伝こそしなかったが、隠してもいなかった。業界では、阿部家には長男の阿部蓮のほかに、苗字の違う二人の少女がいることが知られていた。
だからこそ、注目もされる。
詩織が売れたあと、美咲の名前もついでに出る。そんな流れの中で美咲は配信を始めたが、詩織が嫌いでたまらない。配信のコメントは「詩織を映せ」「歌え」「踊れ」ばかり。本当は雑談して、少し可愛く振る舞うだけのつもりだったのに、あれこれ命令される。
そして決定的だったのが昨夜だ。配信ルームに金城市映像芸術学院の学生が入り込んできた。
「身の程知らず」「自分をお姫様だと思ってる」「所詮は雑草」――好き放題に嘲った。
向こうの視聴者たちは面白がってギフトを投げ、「泣け」「泣いて見せろ」「もっと可哀想にしろ」と煽る。
美咲はその場で罵倒し返し、通報された。さらに文彩堂へ直接クレームまで入れられ、ディレクターから電話が来たのだ。ファンに謝罪しろ、さもなければ通報を続けてアカウントを凍結させる、と。
大バズりしたわけじゃない。それでも見ている人は多かった。美咲は昨夜、スマートフォンの電源を落とした。朝起きたとき、目は腫れていた。きっと、泣いたのだ。
番号を見つめ、美咲は小さく息を吐く。十代の自分のやり方を思い返すと、幼稚で、同時に痛々しい。
現実がどれだけ冷たくても、折り返さないわけにはいかない。
美咲は通話ボタンを押した。松本翔一が出た瞬間、美咲はわざと喉を詰まらせるように息を呑む。
その一拍で、松本が怒鳴りつけようとしていた言葉が、喉の奥で引っかかった。
