第4章
電話の向こうから、か細い女の泣き声が聞こえてきた。さっきまで凄んでいたくせに、今日はこの有様。松本翔は困ったように息を吐く。
「もう泣くなよ。別に怒鳴るつもりじゃなかった」
佐藤美咲は、わざとらしくもう一度しゃくり上げる。
「昨日のは、わざとじゃないの。あの人たちが、あんまり――」
泣きながら舌を噛んだのか、「ひどい」を「ひどすぎ」みたいに言い損ねている。松本翔はこらえきれず、口元をわずかに吊り上げた。
「分かった分かった。けどさ、謝るくらい大したことじゃないだろ。人気が欲しいんだろ? イメージ良くして、ちょっと弱いところ見せてりゃ、そのうち上がる。たまにみんなが本気で高橋詩織を見たいって言うなら、そこは満たしてやれよ。姉ちゃんだって、ほんとにお前を放っとくわけない」
要するに、高橋詩織の人気を借りたいだけ。美咲は受話器のこちらで、従順なふりをする。
「うんうん。じゃあ次は、詩織さんに電話してみる。もし断られても、そっちで私のせいにしないでね。詩織さん、ライブ配信とかしないし……歩いてる道が違うんだもん。スターへの道っていうか」
話が早い、素直で可愛い。松本翔は笑い声に、少しだけ甘さを混ぜた。
「はいはい、全部お前の言うとおり。アカウントも凍結されない。気持ちが落ち着いたら戻ってライブ配信しろよ。いい子にしとけ。昨日みたいなのはもうナシ。お前はこれから大スターになるんだから」
「うん」
佐藤美咲は大きく頷く。
――大スター。
その言葉が、たまらなく心地よかった。
前世で手に入れられなかったものを、今世こそは。芸能界が好きだ。演じることが、好きだ。
松本翔は用意していた説教を言いそびれたまま、笑いを残して電話を切った。佐藤美咲を上手く転がせば、サイト側にも旨味がある。
電話を終えると、美咲は額を揉み、スマートフォンをテーブルに置く。ちょうど鈴木明里たち三人が戻ってきた。美咲がぱっと顔を上げると、伊藤彩は腕を組んだまま白い目を向け、彼女の前を通り過ぎる。最後に入ってきた鈴木明里の手には、弁当がぶら下がっていた。
佐藤美咲はにっこりして弁当を受け取り、甘えるように言う。
「明里さん、愛してる」
鈴木明里は露骨に嫌そうな顔をして美咲を押しのけ、そのままトイレへ。美咲は椅子に座り、弁当を開けて食べ始める。トイレの中から、伊藤彩の苛立った声と、鈴木明里の低い宥め声が聞こえてくる。美咲は聞こえないふりをして、黙々と箸を動かした。
田中真由は食べ終わるとすぐ眠るタイプで、早々にベッドへ上がり、すぅ……すぅ……と小さく寝息を立てている。
食事を終えた美咲は立ち上がり、テーブルを片づけ、寮のゴミをまとめて捨てに行った。戻ると、伊藤彩と鈴木明里はいつの間にか空気が和らいだのか、並んでスマートフォンを覗き込んでいる。美咲は二人に笑いかけ、それから上段へよじ登って、自分も昼寝に入った。
午後にもう一コマ、夜には練習の授業がある。
アラームはかけていた。けれど目が覚めたとき、寮には誰もいなかった。三人は先に行っていて、起こしてもくれない。佐藤美咲は「ちぇ」と舌を鳴らし、上段から降りる。
まあ、予想はしていた。伊藤彩はずっと美咲が好きじゃない。前世でいちばん揉めたのも伊藤彩で、鈴木明里と田中真由にまで「距離を置け」と言っていた。
四人のうち、前世で美咲は黒い意味で売れ、田中真由はずっと脇役止まり。鈴木明里だけが一本の映画で跳ね、その後は裏方に回って、切れ者のマネージャーになった。彼女の手腕で売れた人間は何人もいる。
伊藤彩はというと、御曹司に嫁いだだの何だの、名門の中で揉めてばかりで、芝居もほとんどやらなくなったらしい。家で何かあったのか、金城映像芸術学院に必死で入ったのも御曹司狙いだと噂されていた。阿部蓮にまで手を出したことがある、と。
美咲はベッドの上で少しぼんやりしてから、起きて身支度を整え、慌てて授業へ向かった。
今日の授業は公開授業で、内容は哲学。いつもの美咲なら、こういうのは来ない。だが公開授業の枠が見直されてからというもの、どれも取り合いになっていて、教室はぎっしり満員。普段は不人気な後方席まで、隙間がない。
佐藤美咲は一目で、鈴木明里たち三人が四列目のいい席にいるのを見つけた。そこには一席も空けていない。胸の奥がちくりとして、思わず明里に「かわいそうでしょ?」と言わんばかりの目を向ける。明里は田中真由と話していたが、その視線に気づいて、少しだけ気まずそうにした。
美咲はそれでも、にこっと笑う。
――未来の自分のマネージャーになるかもしれない明里さんには、全力で取り入らないと。
笑われた鈴木明里のほうが、逆に居心地悪そうに視線を泳がせる。左右も前後も、全部埋まっている。……これは、どうしようもない。
美咲は通路で席を探し、しばらくうろうろした末、八列目の柱の陰に、やけに見えづらい空席を見つけた。ぱたぱたと駆け寄り、すみませんすみませんと頭を下げながら人の間をすり抜け、バッグをひょいっと中へ放り込む。
どさっ。
隣にいたイケメンがびくっと肩を跳ねさせ、顔を上げる。頭には一本、ぴょこんと跳ねた髪。佐藤美咲だと分かった瞬間、彼の頬が一気に赤くなった。
佐藤美咲も山田悠真だと気づき、にっと笑って席を指さす。
「取っといてくれたんだ」
山田悠真は一瞬固まり、慌てて隣の椅子に手を置いて押さえる。佐藤美咲が、まるで関所を突破するみたいに人をかき分けて近づいてくるのを見ているうちに、顔がさらに赤くなった。
朝、自分の太ももを枕にして詩を読まれた光景が、脳裏に浮かぶ。
佐藤美咲はようやく辿り着き、どすんと座った。
「ありがと」
山田悠真は小さく、
「……うん」
とだけ返す。
教室はますます人が増え、熱気がこもる。佐藤美咲はバッグをがさごそ探り、ようやく未開封の哲学の本を引っ張り出した。山田悠真の視線が刺さる。美咲は「あはは」と乾いた笑いを漏らし、薄いビニールをぺりぺり破りながら言い訳した。
「昔、あんまり勉強好きじゃなくてさ」
山田悠真は何も言えない顔をする。
遅れていた分を取り戻すみたいに、美咲はペンを走らせ、真面目にノートを取った。山田悠真はペンをくるくる回し、時々スマートフォンを覗く。画面には、誰かからのLIMEが次々届いていた。
授業はあっという間に終わり、先生が出ていくと、静けさは一瞬で崩れて教室がざわつく。人の波が引いていく。
佐藤美咲はふぁ、と欠伸をし、四列目のほうをちらりと見てから、バッグを背負って山田悠真の後ろについて出た。山田悠真は歩きながら電話をしていて、低い声で相槌を打っている。
受話器の向こうのマネージャーが言っていた。
「本当は明後日クランクイン予定だったんだけど、役者が揃ってないのと、違約の件でさ。ちょっと押しそう。お前、しばらく学校でちゃんと授業出とけよ。……そうだ、高橋詩織ってお前の学校だよな? 今、知名度も出てきてるけど……三番手くらいの役、受けると思うか?」
山田悠真は、狙いが分かった瞬間に眉を寄せる。高橋詩織に近づけ、と言いたいのだ。
「俺、彼女と親しくないし。役者のことはそっちで何とかして」
そう言ったところで、佐藤美咲が彼の横をするりと追い抜き、にこにこと笑いかけた。山田悠真は思わず足を踏み外しかけ、心臓が跳ねる。顔がまた赤くなる。
佐藤美咲は教室を飛び出し、廊下に出た瞬間、玄関近くに立つ鈴木明里を見つけた。明里はどこか不本意そうに、ぶっきらぼうに訊く。
「図書館、行く?」
佐藤美咲は即答する。
「行く行く」
「真由と彩は先に行った。私たちはアイスでも買ってからね」
鈴木明里の胸には、ほんの少し罪悪感が残っていた。昼寝のあとも起こさなかったし、公開授業の席も取ってやれなかった。授業中、あの可哀想そうな目がずっと頭に引っかかっていたのだ。
佐藤美咲はバッグを背負い直し、機嫌よさそうに頷いた。
