第2章 彼女を迎えに帰る
「安心して。必ず行く!」
桐生瞳はゆっくり立ち上がると、見下ろすように浅野佳音を見て、落ち着いた声で言った。
浅野佳音は、そこまであっさり返されるとは思っていなかったのか、笑みが一瞬だけ引きつる。だがすぐに唇を噛み、か細い声を作った。
「お姉様……お辛いですよね。だって、お姉様と司……」
「私とあいつは何もない」
瞳は遮り、口元に冷たい嘲りを刻む。
「そもそも、あんな男を宝物みたいに扱うの、あんたくらい」
藤代司が自分を好きなのだと、瞳はかつて信じていた。少年の熱は本物に見えたからだ。
けれど彼が欲しかったのは、浅野家の“正統な令嬢”という肩書き――それだけ。
なら、いらない。
佳音の表情が固まる。笑みも、危うく崩れかけた。
「私、ずっとあいつをゴミ箱に捨てたかったんだよね。まさか、こんなに早く回収しに来る人がいるなんて」
瞳は小首を傾げ、軽い調子で続ける。
「むしろ、感謝しなきゃ」
「……あんた――」
佳音の“優しい顔”が、とうとう張りつかなくなった。
けれど瞳の笑みはさらに深くなる。一歩、距離を詰めて。
「婚約パーティー、行くだけじゃない。とびきりの贈り物も持っていく」
声は柔らかいのに、刃みたいに冷たい。
「そのとき、泣かないでね」
佳音は唇を噛んだ。瞳の奥に怨みの色が走り――すぐに、いつもの楚々とした泣き顔へ戻る。目尻を赤くして見上げる。
「お姉様……私のこと、恨んでるんですよね。でも、気持ちだけはどうにもならなくて……司が好きなのは私で、私にも……どうしようも……」
ぽろぽろと涙が落ち、声が震えた。
「そんなに怒ってるなら、私を叱ってください。叩いてもいいです。絶対、やり返したりしないから……」
その瞬間。
周防芳江が娘の涙を見て、火がついたように佳音を抱き寄せた。
「この恩知らず! 佳音がわざわざ誘ってあげたのに、何その言い方! いい加減にしなさい! 出てけ! 今すぐ、どっか行け!」
周囲の住民までざわつき始める。
「招待してくれてるのに、脅すなんてひどいわね」
「佳音ちゃん、優しすぎるよ。あんなに責められても庇うなんて……」
瞳はそれらの声を聞いても、まぶたすら上げない。
無言のまましゃがみ、地面のビニール袋を掴み上げると、背を向けた。
背中に、周防芳江の罵声がまだ飛んでくる。
「出てったら二度と戻ってくんな! 浅野家は、お前みたいな恩知らず要らない!」
瞳は振り返らない。
その背は決然として、強風にも折れない青竹のようだった。
本邸の門まで来て、タクシーを呼ぼうとしたとき――遠くから、轟、と重い音が近づいてくる。
バイクが、目の前で止まった。
車体はマットブラック。流れるように鋭いラインが、陽光を冷たく跳ね返している。
跨っていたのは若い男だった。派手な金髪に、穴だらけで落書きだらけのだぼだぼジャケット。泥のついたブーツ。鼻梁には大げさなサングラス。
どこからどう見ても、路地裏帰りの不良。
男はサングラスを外し、輪郭のくっきりした整った顔を晒す。
ふてぶてしい桃花眼。口角を上げ、瞳に向かって口笛を吹いた。
「お前が瞳か?」
瞳は眉をひそめる。知らない男だ。気づかれない程度に、一歩だけ距離を取った。
男はバイクからひょいと降り、にやりと笑う。
「俺は叔父。桐生零。ばあちゃんに頼まれて迎えに来た。家に帰るぞ」
……叔父?
瞳は一瞬、言葉を失った。男の背後のバイクへ視線を移し、目つきが変わる。
あれは――Vyrus Alyen。世界限定生産、しかも手作り。ロールス・ロイス・ファントムより高い代物だ。
男の“乞食みたいな服”も、実際は某ハイブランドの最新コレクション。袖口の隠し柄は手刺繍で、世界に三着しかない。
サングラスはLotosの特注。テンプルはプラチナにダイヤ。
これらが手に入るのは、トップ層の富豪だけ。
――生活保護の貧乏人? 足の悪い弟? 借金まみれ?
じゃあ、この叔父は何なんだ。
零は、じっと見られているのに気づくと、鼻を擦って照れたように頭を掻いた。
「俺の格好、地味すぎた? ばあちゃんがさ、派手にするなって。お前がびびるからって」
「……」
これで地味?
零はハンドルに掛けていたヘルメットを差し出し、顎で後部座席を示した。
「とりあえず乗れ。話は家で。ばあちゃんが待ってる。お前が帰るって聞いて、朝から張り切って料理までしてんだぞ」
瞳がヘルメットを受け取った、その瞬間。
背後からばたばたと足音が迫る。
浅野佳音と、浅野家の夫婦が出てきた。騒ぎを聞きつけて様子を見に来たのだろう。
周防芳江は零の格好を見るなり、目を剥いた。
誰よ、あれ。
ぼろぼろの服に金髪、泥だらけの靴。回収屋みたいじゃない。
そのうえバイクも、一見かっこいいだけで風防もなく、シートには傷まである。
周防芳江は露骨に見下し、声高に笑った。
「なにその親戚? 乞食みたいな格好して、オンボロバイク? 調べた通り、貧乏ったらしい!」
浅野建一は黙ったまま、目の嫌悪だけは隠さない。
佳音は口元をほんの少し上げ、心配そうな顔で近づく。
「お姉様……その方、家族なんですか?」
「お姉様、やっぱりあの10万、受け取っておいたほうが……外は厳しいですし……」
周防芳江が娘を引き寄せる。
「佳音、また余計な情けかけるんじゃないよ。本人が出ていきたいんでしょ? 貧乏親戚と落ちてくのも自業自得!」
零は眉を上げ、瞳を見る。
「こいつら、誰?」
瞳は視線すら寄越さず、淡々と言った。
「関係ない人」
零は「へぇ」と頷き、周防芳江たちを上から下まで眺めると、口角を吊り上げた。
「関係ないのに口だけはよく回るな。頭、いかれてんのか?」
「なっ……!」
周防芳江の顔がさっと青くなる。
零は相手にせず、ポケットからカードを一枚出して瞳に渡した。
「これも。ばあちゃんから。小遣いだって。遠慮すんなってさ」
周防芳江はちらりと見て鼻で笑う。
「ただのキャッシュカードじゃない。中身いくら? 1000円? 2000円?」
零は笑うだけで答えない。
周防芳江を見る目は、完全に“哀れな馬鹿”だった。
零はバイクに跨り、エンジンをかける。
低く太い重低音が、腹の奥に響く。
それでも周防芳江はまだ嘲る。
「オンボロのくせに音だけデカい! 貧乏なくせに目立ちたがり!」
瞳はヘルメットを被り、後ろに乗った。
零が振り返り、歯を見せて笑う。
「しっかり掴まれ。叔父さんが家まで連れてってやる」
バイクが唸りを上げ、砂埃を巻いて走り去った。
背後で周防芳江が唾を吐く。
「ぺっ、なんだあいつら!」
佳音は遠ざかるバイクを見送り、目いっぱいの得意顔になる。
やっぱり。桐生瞳の実家なんて貧乏に決まってる。
スラムみたいな場所で生きてきた女が、何を武器に自分と争うっていうの。
佳音は周防芳江の腕にしがみつき、乖巧に笑った。
「お母さん、怒らないで。中に入りましょ」
浅野建一だけが、バイクの消えた方向を見て眉をひそめる。
どこかで見た気がする――そんなざらついた不安。
だがすぐに首を振った。
オンボロバイクだ。値が張るはずがない。
