第3章 何かあったら、私が責任を取る
バイクは本邸区を抜け、北へと流れていった。
桐生瞳は移り変わっていく景色を追い、眉をわずかに寄せる。
この方角……スラム街へ向かう道じゃない。
「どこへ行くの?」
思わず声を上げると、
「帰るんだよ」
桐生零の返事は風に紛れて、少し聞き取りづらかった。
「でも、うちって貧困街にあるって聞いたけど」
桐生零は笑ったようだった。
「それはネット向けの偽装だ。余計な連中を近づけないためにな。お前の両親は立場が特殊で、慎重にやる必要がある」
桐生瞳は言葉を失った。胸の奥に沈んでいた疑問が、また顔を出す。
実の両親はいったい、何者なのか。
「……じゃあ、家はどこ?」
「霊園」
心臓が、どくんと跳ねた。
霊園。
帝都市の中枢に広がる、千畝単位の敷地を持つ閉ざされた大邸宅。部外者はまず足を踏み入れられないという、あの“伝説”。
数百年続く一族の所有だと囁かれ、帝都市で名を知らぬ者はいない。それでも、中がどうなっているのかを見た者はほとんどいない。
豪奢で、ひっそりとしていて、近づくなと肌で告げてくる――そんな場所。
桐生瞳には思い当たることがあった。
以前、周防芳江が茶会に出た帰り、数日間浮かれっぱなしで言い触らしていたのだ。
「霊園に行ったの! 外から遠目に見ただけだけど、門だけでこの辺の本邸全部より立派だったわ!」
「そこの奥さまが桐生姓でね、墓守の名門一族の分家筋だって……」
自分まで格が上がったかのような得意顔。隠しきれない優越感。
「一度でもこの目で見られたら十分よ! ローズガーデンの池で泳いでる錦鯉なんて、1匹数百万なんだから。普通の家なら何年も暮らせるわ!」
当時の桐生瞳は幼く、別世界の話として聞き流していた。
今思えば、滑稽でしかない。
周防芳江が必死に縋りつこうとした名門が、まさか自分の家だなんて。
浅野家は帝都市の富豪の輪に入ったつもりでいたのだろう。だが、そんな世家の前では塵も同然だ。
桐生瞳は少し黙り、口を開いた。
「……その前に、寄ってほしい場所がある」
桐生零が首を傾げる。
「どこだ?」
「春暉ケアセンター」
「そこへ行ってどうする?」
「外婆が、そこにいるの」
桐生瞳の声は少しだけ軽くなったようで、逆に胸を締めつけた。
「家に戻る前に……最後に会っておきたい」
桐生零はバックミラー越しに彼女を一瞥し、深くは問わず頷いた。
「わかった」
……この姪っ子、ほんとに情が深い。浅野家にあれだけのことをされても、あっちの年寄りを気にかけるなんて。
だが、そういう気質こそ桐生の血か――と、どこか納得もしてしまう。
桐生瞳が住所を告げると、それきり口を閉ざした。
養父母が起業したばかりの頃は忙しくて、家のことに手が回らなかった。住み込みの人を雇う余裕もなく、外婆が一人で瞳を育てた。
字は読めない人だった。でも、草花の名前を教えてくれた。夏の夕暮れには団扇で風を送りながら、昔話をしてくれた。
病気のときは抱いて、何度でも、何度でも宥めてくれた。
小学校に上がって間もなく、外婆は突然倒れた。脳卒中で半身が動かなくなったのだ。
養父母は面倒がり、外婆をケアセンターに入れた。年に何度も見舞いに来ることはなかった。
それでも桐生瞳は、雨の日も風の日も、毎月欠かさず会いに行った。
バイクが細い道へ折れ、春暉ケアセンターの門前で止まる。
比較的上等な施設で、外壁には蔦が絡み、庭には古い槐の木が何本も立っていた。
桐生瞳は廊下を進み、突き当たりの病室の扉を押し開ける。
ベッドには痩せ細った老人が横たわり、白髪の頭を枕に沈めたまま目を閉じている。
「外婆」
そっと近づき、手を握る。
骨ばかりになった手は、ひやりと冷たい。
その瞬間、心電モニターが甲高い警告音を鳴らした。ピッ、ピッ、ピッ――速度が異様に上がっていく。
桐生瞳の顔色が変わる。すぐさま瞳孔と脈を確認した。
急性の心タンポナーデ。いつ心停止してもおかしくない。
「叔父さん、滅菌の処置キット持ってきて! 今すぐ!」
声は切迫しているのに、判断は冷たいほど冴えていた。
桐生零は彼女が何をするつもりなのか理解できなかった。しかし、その目を見て、迷う暇はないと悟る。歯を食いしばり、病室を飛び出した。
桐生零がいなくなって間もなく、廊下の方から鋭い声が突き刺さる。
「何をしてるの!?」
白衣の中年女が早足で入ってきた。胸の名札には『副医長 片桐麗華』。顔色は露骨に険しい。
「誰があなたに患者へ触っていいと許可したの? ここはケアセンターよ。勝手に騒がないで!」
桐生瞳は声を抑えながらも、言葉に氷の刃を混ぜる。
「片桐先生。外婆は急性の心タンポナーデです。今すぐ穿刺が必要」
「心タンポナーデ?」
片桐麗華はモニターを一瞥し、鼻で笑った。
「あなたが医者? それとも私が医者? どうせ外婆を早く死なせて厄介払いしたいんでしょ」
桐生瞳の眉が寄る。指が反射的に拳を作った。
片桐麗華は腕を組み、尊大に言い放つ。
「この人の病状は私が一番わかってる。薬でコントロールすればいいのに、手術だなんて何考えてるの? 何かあったらあなたが責任取れるの?」
桐生瞳は冷たく笑った。
「今は心嚢液が心臓を圧迫してる。薬じゃ間に合わない。薬が効く頃には、とっくに死んでる」
「……っ」
片桐麗華が言葉に詰まると、すぐに逆上した。
「私は主治医よ! 薬で行くって言ったら薬なの! 小林さん、フロセミド。静注で!」
脇の看護師が戸惑いながらも向き直り、出ていこうとする。
「待って」
桐生瞳の声は大きくない。だが、足を止めさせるには十分だった。
凍りついた視線で片桐麗華を射抜く。
「外婆はフロセミドにアレルギーがある。3年前、それでアナフィラキシーショックを起こして4時間蘇生した。主治医なら、知らないはずないよね?」
片桐麗華の表情が硬直した。
――担当になったのは3か月前。カルテをろくに読んでいない。知るはずがない。
「わ、私は当然知ってる!」
片桐麗華は強引に言い張る。
「私が使うのは、その……」
言葉が続かない。しどろもどろになる。
警告音はさらに急かされるように鳴り、桐生瞳はもう相手にしなかった。片桐麗華を押しのけるようにベッドへ寄る。
「どいて」
ちょうどそのとき、桐生零が救急用のキットを抱えて戻ってきた。
桐生瞳は受け取ると、無駄のない動きで滅菌手袋を嵌め、メスを取る。
片桐麗華は青ざめた。
「何する気!? 素人が患者に刃物を入れるなんて! 事故が起きたら誰が責任取るの!?」
「私が取る」
桐生瞳は一度も振り返らない。メスの刃先が老人の皮膚をすっと撫で、切開線は迷いなく整って開いた。
続けて穿刺針を取り、切開部へ正確に合わせ、ゆっくりと刺し入れる。
その瞬間、桐生瞳の気配が変わった。
手術台に立つ外科医そのもの。支配する静けさ。目の前の命だけが世界の中心になる。
指は岩のようにぶれず、動作の一つひとつが定規で引いたように正確だった。
どれほど時間が経ったのか。
桐生瞳が低く呟く。
「……入った」
シリンジへ、暗赤色の貯留液がじわりと流れ出した。
老人の胸の上下が落ち着き、呼吸が戻る。
桐生瞳は気を緩めない。モニターの酸素飽和度が93まで回復したのを確認してから、ようやく針を抜き、ガーゼで穿刺部を押さえた。
全工程、4分とかかっていない。
桐生零はドア枠にもたれ、背中が汗で冷え切っているのを自覚した。
桐生家の人間として、修羅場などいくらでも見てきた。だが、今の数分間だけは違う。
小さな少女が、補助も満足にない状況で心嚢穿刺をやり切った。
必要なのは技術だけではない。常人には持ち得ない精神の強度だ。
桐生瞳の落ち着きは、彼が見てきた心臓外科の名医たちよりも、なお凄みがあった。
……この姪はいったい、何者なんだ。
片桐麗華も、桐生瞳が本当に穿刺を成功させるとは思っていなかったのだろう。顔に浮かぶのは露骨な動揺。
それでも引き下がれないらしく、歯を食いしばって叫ぶ。
「違法医療よ! 通報する! 牢屋に入れてやる!」
「誰が違法だと?」
病室の入口から、老いてなお芯のある声が響いた。
背筋の伸びた老人が足早に入ってくる。後ろには白衣の医師たちが数人続く。
片桐麗華はその顔を見た瞬間、血の気が引いた。
「い、院長……?」
