第5章 開頭血腫除去術
桐生瞳が悲鳴を上げ、とっさに松下淑子を抱き寄せた。
「おばあちゃん! しっかりして、どうしたの!」
松下淑子は答えようと口を開きかけた、その瞬間――胸の奥を貫くような激痛が走った。視界がすっと暗くなり、そのままぐったりと意識を失う。
向かい側で浅野佳音が首を振り、わざとらしくため息をついた。
「はぁ……見てよ。おばあちゃん、もともと体が弱いのに。なのにあなたが怒らせるから。いったいどんなつもりなの?」
「もう浅野家の人間じゃないからって、そこまでやる? おばあちゃん、前はあなたのことだって可愛がってたのに」
桐生瞳は佳音を殺気立った目でにらみつける。
「黙れ。いまお前に構ってる暇はない。向こうへ行け!」
医者を呼びに飛び出そうとしたところで、浅野佳音が腕を伸ばして行く手を塞いだ。
「まだ謝ってないよね。何を焦ってるの? 逃げるつもり?」
「どけ」
桐生瞳の声は、底冷えするほど冷たい。
浅野佳音は平然と笑う。
「もう一回だけチャンスあげる。謝って。さもなきゃ――」
言い終える前に、桐生瞳の手が閃いた。
パァンッ……!
乾いた音が廊下に響く。佳音の頬が横に弾け、反対側も腫れていたせいで、見事に左右そろった。
浅野佳音は熱を持つ頬を押さえ、感情が一気に崩れ落ちる。
「見たでしょ!? また叩いた! 痛い、ほんとに痛い……! ねえ、ちゃんと私の味方してよ!」
藤代司が桐生瞳を指さし、怒りで息が荒くなる。
「き、きみ……本当に度が過ぎてる! 佳音は妹だぞ、どうしてそこまで――」
「うるさい。お前も消えろ。次はまとめて殴る」
藤代司は胸を張った。
「だったら、俺が退かなかったらどうする?」
次の瞬間――背後から大きな足が飛んだ。
「ぐあっ!!」
藤代司は悲鳴を上げ、体ごと宙を舞って壁に叩きつけられる。
桐生零が、いかにも自分では決まってるつもりのポーズで顎を上げた。
「空気読めない奴は引っ込んでろ」
そこへ、陸奥守正と複数の医師たちが足早に駆けてくる。
桐生瞳がすぐに声を張った。
「院長! さっき外婆が興奮して、再出血の可能性が高いです。今すぐ開頭血腫除去術が必要です!」
「私が執刀します。経験のある先生方、助手に入ってもらえますか」
院長が答えようとした矢先、片桐麗華が割って入り、ねっとりした口調で笑った。
「へぇ~、ずいぶん偉くなったもんね。開頭血腫除去術って、誰でもできる手術だと思ってるの?」
「そんな高難度、最低でも何十年の臨床経験が必要でしょ。あなたなんて、まだ青いにも程があるのに、何でやるつもり?」
院長が大きく息を吸い、きっぱり言い切った。
「私が助手に入る」
片桐麗華が固まる。
「い、院長……冗談でしょう? 彼女にこの手術を? 何かあったら重大事故です! ケアセンター全体が責任を――」
院長は鋭くにらみ返し、氷のような声で遮った。
「いま最優先は救命だ。責任は私が取る。決定事項だ」
「坂本医師、李医師。私と一緒に入ってください」
「はい!」
松下淑子はすぐに第1手術室へ運ばれ、桐生瞳も看護師に手伝われて手術着へ着替えた。
桐生零が落ち着かない顔で覗き込む。
「瞳……大丈夫か。勝算あるのかよ」
桐生瞳は力強くうなずく。
「全力でやる」
手術室へ入る直前、桐生瞳は浅野佳音と藤代司を一瞥した。
「二人とも祈っておけ。外婆に何かあったら――残りの人生、安眠できないようにしてやる。試してみればいい」
桐生瞳が入った途端、浅野佳音は藤代司の胸に飛び込み、涙を止めどなくこぼした。
「なんであんなに私に冷たいの……? 私が両親に見つかったから? でも私、本当の子どもなのに……」
「私、何を間違えたの? どうしてこんなことされなきゃいけないの……うぅ……」
藤代司は佳音を抱き、低い声で宥める。
「大丈夫だ。あいつが勝手に落ちてるだけだよ。相手にする必要ない」
「浅野家から追い出したのも正解。外の世間の厳しさを味わえば、誰が本当に優しいか分かるだろ」
その横で桐生零が鼻で笑った。
「へぇ。よくそんな口が回るな。嘘を吐くのに下書きもいらないタイプか。たいしたもんだ」
藤代司が不快そうに眉を寄せる。
「さっき蹴ったことは大目に見てやっただろ。これ以上、調子に乗るなよ。いい加減にしろ」
桐生零は返事もせず、消防設備の中から消火器をひったくると、大股で藤代司へ詰め寄った。
「いま何て言った? 聞こえねえな。もっと大きい声で言えよ」
藤代司は青ざめ、後ずさる。
「こ、ここは病院だぞ! やめろ、ふざけるな……!」
看護師が慌てて割って入らなければ、蹴られただけでは済まなかっただろう。
桐生零は二人に興味を失い、屋上テラスへ向かった。
冷たい風に当たっているほうが、あいつらの顔を眺めるより百倍マシだ。
浅野佳音は額の冷や汗を拭い、背を向けて周防芳江と浅野建一へ電話を入れる。
第1手術室。
桐生瞳は緊急で撮った頭部CTに目を走らせると、血腫位置をもとに頭皮へアプローチラインをマーキングし、松下淑子の髪を剃った。
「交差適合試験! 濃厚赤血球、準備!」
「マンニトール静注。全身麻酔、頭部固定!」
次々と指示が飛ぶ。
準備が整い、桐生瞳はメスを取った。印をなぞるように皮膚を切開し、高速ドリルで骨孔を六つ――。
彼女の手の中でメスが魔法を得たかのように、動きに一切の迷いがない。鋭く、潔く、余計な間がない。
表情も終始静かだった。すべて想定内だとでも言うように。
対照的に、周囲の医師と院長は汗を拭う回数が増えていく。張りつめた緊張が、手術室の空気を重くしていた。
そして――
三十分ほど経った頃、廊下の奥から慌ただしい足音が迫ってくる。周防芳江と浅野建一が駆けつけた。
「お母さん!!」
二人は大声で叫ぶが、涙は出ない。泣くふりの声だけがやけに大きい。
「どういう管理してるの!? なんで母が脳出血なんか起こすのよ! 患者の世話もできないの!?」
「俺は毎年いくら払ってると思ってる! これがケアって言うのか! このボロいケアセンター、潰してやろうか!」
浅野建一が看護師へ怒鳴り散らす。
看護師は怯えながら言葉を選んだ。
「申し訳ありません。どうか落ち着いて、状況を――」
「聞かない! いいか、母に万一のことがあったら、誰も無事じゃ済まないからな!」
浅野佳音が周防芳江へすがりつき、涙を流し続ける。
「ママ……私が悪いの。もっと早くお姉様を連れて離れればよかった。そうしたら、お姉様がおばあちゃんを怒らせることも……」
周防芳江は歯噛みして唸った。
「またあの疫病神!? どこにでも現れるわね……あいつはどこ! 今すぐ引きずり出して来なさい!」
浅野佳音が第1手術室を指す。
「お姉様、いま手術してます。おばあちゃんの……」
周防芳江は息を詰まらせ、顔色を変えた。
「誰があの子に許可したの!? 料理すらまともにできないくせに、手術なんてできるわけないでしょ!」
「医者は!? 医者を出しなさい! 母の命で遊ぶんじゃない!」
廊下は一気に騒然となる。
その少し離れた場所で、仕立てのいいスーツを着た男が病歴資料を片手に、横目で騒ぎを捉えた。眉がわずかに寄る。
深色のオーダースーツは体に沿って端正に整い、沈んだ気配の冷たさがある。整った顔立ち、鋭い眉眼。近寄りがたい圧が、自然と周囲を黙らせる類の男だった。
「医者でもない人間が、手術を?」
傍らの専属秘書が恭しく答える。
「御堂代表。噂では、海外の世界的名医の高弟子だそうです。院長たちより上だと」
「ですが……まだ若い女性です。そこまでの腕があるとは考えにくいかと」
御堂瞬は答えず、立ち止まって様子を見ていた。
そのとき。
第1手術室のランプが消える。重い扉が、ゆっくりと開き始めた……。
