第九章 お前の足、治せる

「……要りません」

桐生瞳は即座に言葉を遮り、きっぱりと言い切った。

「今後この件には一切触れないで。不必要な厄介事を招きたくないの」

「……かしこまりました」

ケビンはそれ以上なにも言えず、慌てて頭を下げた。

ほどなくして二人はデザインの方向性を簡単にすり合わせ、ケビンは恭しく退出する。

桐生瞳は衣服の乱れを整え、階下へ向かう支度をした。

部屋を出てすぐ、2階の控えの間の前を通りかかったとき、内側から聞こえた声に足が止まる。

桐生万理華だ。

しゃくり上げるような泣き声で、車椅子の桐生辰哉に縋りつく。

「辰哉、私どうしたらいいの……? お姉様、私のこと全然好きじゃないみたい。家の中で立場が固まったら、きっと私を追い出すよ……!」

「私、身寄りがないの。追い出されたら、本当に行くところがなくなる……」

「あなたにとっては血のつながったお姉様なのは分かってる。でも、私はずっとあなたのそばにいたでしょう? だから……お願い、助けて」

控えの間の入口に立つ桐生瞳の表情は淡い。冷えたまま。

桐生辰哉は車椅子に座ったまま、ゆっくりと頷いた。時折、短く相槌を打つだけ。だが、その瞳の奥には迷いが滲んでいる。

万理華の言うことが本当なのか。自分はどう動くべきなのか。まだ決めかねているのだろう。

桐生万理華はなおも涙声を重ねる。

「怖いよ……。お父様もお母様も、あの人のことばっかり大事にする。これからこの家で、私の居場所なんて……」

「辰哉、私が追い出されてもいい。だからあなたは、ちゃんと自分を大事にして……」

「――誰が、あなたを追い出すって?」

突き刺すように、桐生瞳の声が落ちた。

桐生万理華はびくりと肩を跳ねさせ、泣き声がぷつりと途切れる。

振り向くと、桐生瞳が冷えた顔のまま、ゆっくり控えの間へ入ってきた。

「お姉様、ごめんなさい……わざとじゃないの。ただ……怖くて。怒らないで……」

桐生万理華は怯えた顔で、矢継ぎ早に謝る。

その震えを見た瞬間、桐生辰哉は車椅子を回し、万理華の前に身体を滑り込ませた。

「万理華お姉様に悪気はない! いじめるな!」

「たしかに君は僕の本当のお姉様だけど、万理華お姉様はずっと僕と一緒にいてくれたんだ。僕が守る!」

桐生瞳は眉をわずかに上げ、子犬みたいに庇い立てする少年を見た。怒りはない。

……この弟、悪くない。

足が不自由でも責任感はある。目の前の誰かを守ろうとするところは、藤代司みたいな節穴の男よりずっとましだ。

桐生瞳は万理華の泣き言も、辰哉の敵意も受け流し、まっすぐ二人へ歩み寄った。

そして二人が目を見開く中、手を伸ばし、問答無用で桐生辰哉の膝をそっと掴む。

「なにするの!」

桐生万理華が甲高く叫び、桐生瞳を押しのけようと手を伸ばす。

「用があるなら私に言って! 辰哉に触らないで!」

桐生辰哉は身体をこわばらせ、苦い笑みを浮かべると、万理華の手首を弱々しく引いた。

「万理華お姉様、大丈夫……。どうせ僕は、最初から――」

「障害者なんだ。辱めたいなら、辱めればいい」

もう抵抗することに疲れていた。周囲の視線にも、不公平な運命にも。

桐生瞳は薄く眉を上げ、手を離して軽く払うように叩いた。

「はいはい。私を悪役に仕立てないで」

そして淡々と言い放つ。

「――その脚、治るよ」

「……え?」

桐生辰哉が弾かれたように顔を上げる。信じられない、と唇が震えた。

「治るって……? 嘘だ。名医に何人も診てもらった。全員、無理だって……」

「私は嘘をつかない」

桐生瞳は笑っているのに、眼差しはどこかからかうように冷たい。

「ただし、耳だけ立派で目がついてないのは困るね」

「人を見る目がないと、誰かの鉄砲玉にされても気づかない」

言い終えると、意味深に桐生万理華を一瞥した。

そのまま踵を返し、控えの間を出ていく。

背中が遠ざかるのを見送りながら、桐生万理華は両手をきつく握りしめた。瞳の底に怨毒が走る。だが、それを表に出せず、再び辰哉に縋るように泣こうとする。

――けれど、今度は桐生辰哉が黙ったままだった。

長い沈黙のあと、辰哉は万理華を見上げる。

「……お姉様が家に戻ってから、万理華お姉様と二人きりで話したこと、まだ一度もないよね」

「それなのに、どうして……必ず追い出されるって言い切れるの?」

桐生万理華の泣き声がぴたりと止まった。

顔の筋肉が固まり、口を開いても言葉が出ない。なにか言い訳を探すのに、息だけが空回りする。

……

階下では、すでにケビンが辞去していた。

沢渡令子は桐生瞳の手を取ってソファへ座らせる。言いにくそうに視線をさまよわせ、何かを切り出せずにいる。

「お母さん、言いたいことがあるなら、そのまま言って」

桐生瞳が静かに促すと、沢渡令子は照れくさそうに笑い、ついに口を開いた。

「瞳ね、お母さんから相談があるの」

「あなたが小さい頃、婚約を結んだ相手がいるのよ。家柄も立派で、人柄も見た目も申し分なくて……帝都の名家の令嬢たちが憧れるような方」

「あなたがいなくなってから、この話はなかったことにするつもりだったんだけど……今、あなたが戻ってきたでしょう?」

沢渡令子は慌てて付け足す。

「もちろん、無理強いはしないわ。ただ一度、会ってみてほしいの」

「気に入ったなら進めればいいし、嫌ならお断りする。全部、あなたの気持ち次第よ」

桐生瞳は眉をわずかに寄せた。

政略結婚なんて興味はない。まして会ったこともない相手だ。

だが、ここで即答で拒めば、両親の顔を潰すだけでなく、余計な噂や面倒を呼ぶかもしれない。人づてに伝言ゲームが始まれば、かえって火種になる。

なら、自分で会って、自分の口で終わらせる。

そう腹を決め、桐生瞳は小さく頷いた。

「分かった。一度だけ、会う」

沢渡令子は予想外の即答に目を丸くし、すぐにぱっと笑顔になる。

「よかった……! じゃあ、お母さんがすぐ段取りするね」

階段口で、そのやり取りを桐生万理華が一言残らず聞いていた。

手すりを握る指に力が入り、関節が白くなる。胸の内を満たすのは、嫉妬と焦り。

縁談――。

それは彼女が長いあいだ、虎視眈々と狙ってきた婚約だった。

いずれ自分のものになるはずだと信じていたのに。桐生瞳が戻ってきた途端、令嬢の座も、両親の愛情も、そして婚約まで奪われるのか。

許せない。

桐生万理華は奥歯を噛み締めた。

――絶対に、思い通りにはさせない。

翌日、約束の時間。

桐生瞳は中心街にある、最上階の高級スカイレストランへ足を運んだ。

徹底した会員制で、最高級の富裕層だけが利用できる。普通の人間は入口の敷居すら跨げないような場所だ。

店内に入り、席に向かおうとした、その背後。

聞き覚えのある、耳障りな嘲り声が飛んできた。

「お姉様? どうしてここにいるの」

「まさか……清掃の面接?」

わざとらしい驚き。

「えー、実のご両親の家って、そんなに貧乏なの? ここで働かなきゃいけないくらい?」

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