第1章 救命のお金

腫瘍科。

静かに病室のベッドに横たわる私に、親友の石川萌香が白衣のポケットに両手を突っ込み、呆れ返ったような顔を向けていた。

「向こうはあなたのご主人と海の上でロマンチックな告白ごっこ。それに比べてあなたはいい様ね、木村美玲。路上で痛みから気を失って、通りすがりの人に病院へ運ばれるなんて」

彼女はスマホを取り出し、トレンドニュースの一番上の記事を私に見せた。

クルーズ船の晩餐会で、女が驚きの表情で空に浮かぶドローンによる告白演出を見上げている。黒いスーツに身を包んだ男が、手すりに寄りかかりながら優しく彼女を見つめていた。

その下にはコメントがずらりと並んでいる。

【山本社長、お金持ち! お似合いだなぁ、末永くお幸せに!】

【ロマンチックすぎる。こういうドローンショーって十万円からって聞いたことあるけど、よその彼氏ってすごいわね!】

【山本グループ社長が初めて交際を公にしたって聞いたけど、この大掛かりな演出! 大きなダイヤの指輪! やっぱり本気で愛してくれる男は、女に負けを感じさせないのね!】

私は唇を引き結んだが、心は凪いだように静まり返っていた。

私の様子を見て、石川萌香はそれ以上何も言わず、ただため息をつくと、パソコンの前に戻ってカルテを打ち始めた。

「モルヒネ持続性錠剤を使ったから、短時間なら痛みは治まるはず。でも、あなたはもうピロティニブに耐性ができてるから、これから新しい治療プランに変えないと」

骨の奥から疼くような痛みが全身を冷たくする。私は腕をさすりながらベッドから起き上がった。「まだ治せる薬、あるの?」

石川萌香は私をちらりと睨んだ。私がそういうことを言うのが気に入らないのだ。

彼女はキーボードをけたたましく叩きながら、不機嫌そうに言った。「今、京大医学部と海外の研究室が共同で、骨肉腫末期治療のためのターゲット治療薬を研究してる。それを試してみたら。効果はあるはずよ」

「でも、お金がない」と私は淡々と告げた。

石川萌香は低く「クズ男が」と罵った。

彼女は立ち上がると、処方箋を私に突きつけ、歯ぎしりしながら言った。「山本宏樹もああいうことしてて、よく天罰が下らないわね!」

私は小声で言った。「あの人は、私が病気だって知らない」

石川萌香は口を噤むような仕草をした。「男の言い訳なんかしないで。あなたが卒業式で彼を振って海外に行ったからでしょ? 合意の上だったことじゃない。今さらあなたと結婚したってことは、もう根に持ってないってことでしょうに。あんなに大きな会社の社長が、奥さんの生活費も渡さないなんて、格好悪いにもほどがあるわ」

私は力なく笑った。

根に持っていない?

山本宏樹が私と結婚したのは、気にしていないからなんかじゃない。ただ純粋に、復讐したかっただけだ。

新婚初夜、彼は私を置いて家を出て行った。どこへ行ったかは言わなかったが、翌日酔って帰ってきた彼の首筋には、くっきりとしたキスマークがすべてを物語っていた。

私が何の反応も示さないのを見てか、彼はさらにエスカレートしていった。ほぼ毎晩、違う女を連れて私の前に現れた。

心が痛まないと言えば嘘になる。

山本宏樹は閨事において奔放で、部屋から聞こえてくるあの淫靡で顔が赤くなるような声を聞くたび、吐き気を催さずにはいられなかった。

一度だけ、どうしても我慢できずに部屋に飛び込んだことがある。

山本宏樹も少しは自重するかと思った。だが、彼はなんと、ベッドからその女を抱き上げると、私の目の前に立って見せつけるように事を続けたのだ。

私は一瞬にして崩れ落ち、テーブルの上のものを床に叩きつけて彼と大喧嘩した。

しかし山本宏樹は、ただ軽蔑するように笑うだけだった。

山本宏樹に言わせれば、私は彼の真情をすべて裏切ったのだから、今このような結末を迎えるのも自業自得だという。

私は自嘲気味に笑った。「まあ、自業自得だったんだろうな。」

石川萌香は心を痛めたように眉をひそめた。「馬鹿なこと言わないの! あなたは安心して病気を治すことだけ考えて。いつか山本宏樹が後悔する時が来るから」

「とりあえず京大医学部の教授にアポイント取ってあげる。治療費は私が立て替えるけど、この先いくらかかるか分からないから、心の準備だけはしておいて」

心から感謝していると、礼を言おうとした私を萌香が遮った。

「私たちに遠慮はいらないでしょ。自分の体を大事にして。私にあなたの救急外来の連絡が来ないようにしてくれるだけでいいから」

私は笑って頷いた。萌香は私の病気のために金銭的にも労力的にも尽くしてくれている。いつまでも彼女に迷惑をかけるわけにはいかない。

病院を出て家路につく途中、ケーキ屋の店員から電話がかかってきた。

「山本様、ご注文の誕生日ケーキが出来上がりましたが、今から配送いたしましょうか?」

「いえ、結構です。代金は支払い済みですので、そちらで処分してください。ありがとうございます」どうせ家に届けても誰も食べない。

「すでにお作りしておりますが、本当にご不要でしょうか?」

私は淡々と答えた。「不要です」

今の私に必要なのは、命を繋ぐためのお金だけだ。

別荘に戻ると、ちょうど山本宏樹の秘書である中村治郎に鉢合わせた。

彼は男性用の服が入った紙袋を手に持っており、帰宅した私を見て明らかに一瞬固まったが、すぐさま慌てて挨拶をした。「奥様、お帰りなさいませ」

私は冷たく頷き、彼に応対する気にもなれなかった。

中村治郎は私を一瞥し、ためらいがちに言った。「奥様、近頃顔色が優れないようですが、山本社長にお伝えしましょうか」

私は少し意外に思って彼を見た。

山本宏樹がいつ私の生死を気遣っただろうか。

だが魔が差したのか、私は尋ねていた。「今日、私の誕生日なんです。山本宏樹はいつ帰ってくるの?」

中村治郎の視線が一瞬揺らぎ、すぐに元に戻った。「山本社長は国際会議がございまして、私が着替えを取りに参りました。今夜は恐らく……」

彼が言い終わる前に、私は背を向けて二階へ上がった。

聞くだけ無駄な言葉もある。

寝室のドアの前に、綺麗に包装されたギフトボックスが置かれていた。メッセージカードにはこう書かれている。『世界で一番素敵な美玲へ。悩みがなく、願いが叶いますように。ハッピーは万病を治す!』

署名は、萌香。

私の心は随分と晴れやかになり、箱を開けてみると、とても精巧なアロマキャンドルだった。

寝室に入り、キャンドルに火を灯して願い事をし、それから吹き消す。

温かい香りを帯びた灰白色の煙がゆっくりと立ち上る時、スマホがピコンと鳴った。

振込通知だった。

山本宏樹の個人口座からだ。普段は中村秘書が管理しているが。

備考欄には簡単な四文字。『誕生日おめでとう』。

明らかに中村秘書が取り繕うために送ってきたのだろう。

私は自嘲気味に笑った。この願い事も、案外効果があるようだ。

お金を受け取ると、私は続けて石川萌香にメッセージを送り、ターゲット治療薬を研究している医師のアポイントを取ってくれるよう頼んだ。

ほどなくして、彼女から返信が届いた。

「明日の昼十時半、観葉湖景レストラン、長谷部翔太先生」

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