第2章
「……藤原社長が、離婚に同意なさるんですか?」
電話口の弁護士は驚きが隠せない声だった。
詩音の語調は氷のように冷たい。
「同意なんて要らない。私がサインさせる。離婚が成立したら、私も雪見家も、あの人とは完全に縁を切る」
投資部から毎日回す書類は山ほどある。
そこに紙一枚紛れ込ませ、和也に署名させるなど、造作もない。
「それから……この件は、両親と兄には、今は言わないで」
弁護士は余計なことは聞かず、承知して電話を切った。
詩音はスマホを握り締めたまま、視線をベッドサイドのウェディングフォトに落とす。抱き合う二人。そこに残るのは嫌悪だけ。
彼女は手を伸ばし、フォトフレームを乱暴に伏せた。
ドアの外から、ぱたぱたと叩く音。
蓮の幼い声が弾む。
「ママ! パパ、あと十分で帰ってくるって。早く降りてごはん食べよ!」
詩音は一瞬だけ揺れた。
この甘えた声――まるで何も変わっていないようだ。
子どもはまだ小さい。生みの親と血の繋がりがあるとしても、それは本能。
もしかしたら……和也とは違う。
琴音は一日たりとも育てていない。自分は五年、手をかけてきた。
蓮のことは小さな頃から、何から何まで自分が世話をしてきた。こんな小さな子が、演技なんてできるだろうか。
詩音は胸の奥が小さく震え、気力を絞って返事をした。
「今行く」
スマホを放り、立ち上がって扉を開ける。
蓮がすぐに飛びつき、手を握った。笑顔が甘い。
「ママ、今日はママの好きなエビの甘辛煮だよ」
さっきの口調など微塵もない。
――やっぱり、息子は自分に情がある。
詩音はいつもの癖で頭を撫でようとして、口元を緩める。
「自分が食べたいだけでしょ」
蓮は「へへ」と笑い、手を引っ張って階段を駆け下りた。
家政婦がスープをよそい、ソファで蓮のランドセルを整えていると、突然声を上げた。
「坊ちゃま、これは何ですか?」
詩音が横目で見ると、家政婦が取り出したのはギフトボックス。中には手編みの白い白鳥が入っていた。
詩音は覚えている。先週の図工の宿題――テーマは「わたしのママ」。
「触るな!」蓮が甲高く叫び、駆け寄ってボックスを奪い取る。
家政婦は蒼白になった。
「す、すみません坊ちゃま、片付けようと……」
「大事な人にあげるんだ! 勝手に触るな!」
蓮は真っ赤になって守る。
詩音は椅子に座ったまま、真っ白な紙の白鳥を見つめる。胸に灯りかけた小さな喜びが、すっと消えた。
喉が詰まり、好奇心を装って尋ねる。
「蓮、それ……誰へのサプライズ?」
蓮は目を泳がせ、両手を背中に隠した。
ボックスを奥へ押し込み、もごもご言う。
「えっと……すっごく綺麗なおばさん。ママは知らないよ。秘密!」
詩音の心が底へ沈む。
今までの工作は、真っ先に自分へ宝物みたいに持ってきたのに。
琴音が少し顔を出しただけで、彼の中で“母”の席がすでに入れ替わったのか。これもあの女に残すというの?
痛みを飲み込み、追い打ちをかける。
「ママと、そのおばさん……どっちが大事?」
蓮が目をくるりと動かし、答えかけた瞬間、玄関で音がした。
和也がスーツを脱いで入ってくる。眉目は相変わらず整い、初めて会った日に詩音が落ちたままの顔だった。
だが今回は、詩音はいつものように優しく微笑んで迎えることはしなかった。
冷たい目で見て、何も言わない。
代わりに蓮が歓声を上げ、和也の脚に抱きついた。
「パパ!」
「うん。今日は家でいい子にしてたか」
和也は片手で抱き上げ、もう片方で紙袋をテーブルに置く。
蓮が得意げに言う。
「すっごくいい子だったよ! これ、ごほうび?」
「違う、お前のママにだ」和也が袋を詩音へ押しやった。「詩音、開けてみて」
視線が合うだけで胃がひっくり返りそうなのに、詩音は袋を開ける。限定のクリスタルのコーヒーカップ。
入手困難で、先月何気なく口にしたもの。
和也は袖のカフスを外し、座る。
「気に入った?」
「好きよ。よく覚えてたわね」詩音は適当に返す。
和也は唇を上げる。
「君が喜ぶならそれでいい。……それで、相談がある」
前置きなしに本題へ入った。
「投資部は負担が大きすぎる。昼夜逆転で働いてるのを見ると、俺はつらい」
詩音は長く息を吐き、無表情のまま返す。
「それで?」
「副部長を二人昇格させて分担させる。君はもうその席にしがみつかなくていい。家で体を整えて、蓮と過ごしてほしい」
和也が、すでに印刷済みの書類を差し出した。
タイトルは――退職願。
詩音の心が凍る。
離職届まで用意している。相談ではなく、通告だ。
使い終えたら捨てる。和也の刃は正確で、容赦がない。
「来月引き継ぎが終わったら、あとはのんびり暮らせ。会社は俺が見る。君も俺のために十分頑張った」
和也が手を伸ばし、詩音の髪を撫でた。
詩音は目を伏せる。その瞬間、彼女の中でこの結婚も、この男も、完全に終わった。
深く息を吸い、言う。
「いいわ。あなたの言う通りにする」
ちょうどいい。準備の期間が必要だった。
三十日あれば、ここから資源を全部運び出して、和也を人も金も失わせるには十分だ。
支えがなくなっても、和也が藤原グループでどれだけ居座れるか――見ものだ。
「本当か? 怒ってないか?」和也が見つめる。
詩音は顔を上げ、笑顔を作った。
「怒ってないよ。私も前からそう思ってた」
和也はほっと息をつく。
「それならいい」
言い終える前に、テーブルのスマホが震えた。
和也は反射的に画面を伏せようとしたが――詩音には見えた。
――琴音。
