第4章

「和也」?

詩音の口元が、自嘲めいた形に歪む。

なんて親しげな呼び方だろう。

次の瞬間、琴音が弱々しく言った。

「雪見さん……」

彼女は和也の腕から離れる気配すらなく、むしろその胸の奥へ身をすくめる。

和也が勢いよく顔を上げた。

目が合った瞬間、彼の瞳に一瞬だけ動揺が走る。それでもすぐ平静を装い、短く言った。

「来たか」

詩音の視線は、まだしっかりと握り合っている二人の手に落ちる。喉が渇いて言葉が出ない。

「……ええ」

とっくに覚悟はできていたはずなのに。目の前で見せつけられれば、やはり心は勝手に痛む。

和也は面子と利益を何よりも重んじる男だ。それが今、琴音のためなら何もかもを投げ打っている。

背後でボディガードたちの慌てた声が飛び交い、この五年が笑い話みたいに感じた。

二人がまだ離れないのを見て、詩音は強く目を閉じた。胃がねじれて吐き気がする。

目を開けると、波立っていた感情が不思議なくらい引いていた。

琴音が立ち上がる。

「説明させて……」

詩音は視線すら与えないまま彼女の横をすり抜け、和也の前に立つ。身をかがめて額の傷を軽く確認し、スマホを取り出して一一九番へかける。状況と住所を淡々と伝えた。

「被害者は?」

後ろめたそうに視線を落とし、和也は眉を寄せた。苛立ちが滲む。

「隣だ」

詩音は頷く。

この時間、クラブの外は確実に記者が張っている。今、正面から出れば、かえって会社の広報に悪影響を及ぼす。

救急車が来たら、和也は殴られた男と一緒に搬送し、迅速に場所を変える。

問題は、その殴られた相手だ……。

詩音は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

この件は簡単には済まない。会社への影響は避けられないだろう。

「雪見さん」

琴音が数歩近づき、指を握りしめる。整った小さな顔は罪悪感でいっぱいだ。

「全部、私が原因です。不満があるなら、私にぶつけてください」

「私がいなければ、和也は――」

詩音は眉をひそめ、手を上げた。

「そこまで」

振り返ってボディガードから渡されたタブレットを受け取り、操作して見せる。株価が一直線に落ちていた。

「あなたに当たり散らして会社の損失が戻るなら」

詩音はタブレットを下ろし、冷ややかな目で琴音を射抜く。

「部屋に入った瞬間に、もう頬を平手打ちしてるわ」

「詩音!」

和也がソファに手をついて立ち上がり、琴音を背中に引き寄せた。露骨に不快感をあらわにする。

「この件は彼女とは関係ない。八つ当たりするな」

言い終えた瞬間、和也の体が揺れた。

琴音が驚いて支える。

次の瞬間、和也は半分意識を失ったまま、琴音の肩にもたれかかった。

その言葉が、詩音の心を完全に冷やした。

会社は危機的状況で、広報部は総出で残業して損失を抑えようとしている。それでも和也は“元凶”を庇う。

結局、最後に悪者になるのは自分だ。

馬鹿みたいだ。

藤原の妻など名ばかり。琴音と和也こそが“本物の一対”なのだ。

詩音は下唇を噛みしめた。感情を爆発させないために、全身の力を使う。

コン、と。

個室の扉が開き、ボディガードが医療スタッフを連れて入ってくる。

詩音は彼らに指示を出した。

「藤原社長を搬送して」

視線を琴音へ向け、声は氷。

「別の車を出して、この人は帰して」

和也は昏睡している。

琴音は彼の頬に指先を滑らせ、反論した。

「和也は今、私が必要なの!」

詩音は冷たい顔のまま、ボディガードへ合図した。

「相談じゃないわ。身の程をわきまえて」

広報の危機は終わっていない。和也も倒れ、やるべきことが山ほどある。

これ以上、相手にする気はなかった。

扉が閉まりかけ、追いかけようとする琴音をボディガードが遮る。

「小林さん、困らせないでください」

そして丁寧に案内した。

「こちらへ」

病院、個室。

医師は簡単に診察し、説明した。

「外傷は軽いですが、軽度の脳震盪です。数日は安静に」

詩音は頷き、和也がまだ眠っているのを確認すると、ソファに座って後始末に取りかかった。

テーブルのスマホがぶるぶる震える。詩音は手に取って画面を一瞥し、電話に出た。

「どうしたの」

「奥さま、別ルートも記者が張っていて、車を塞がれて出られません」

電話のボディガードは、車内の“もう一人”を気にして声を落とす。

「藤原社長と小林さんの関係をずっと聞かれていて……」

また、あの女。

胸の内が詰まり、息がしづらい。

詩音は長く息を吐き、感情を押し込めた。

「放っておいて。答えが出なければ、そのうち引くわ」

切って、苛立たしげにスマホをテーブルへ投げた。そのままソファにもたれ、額を揉む。

手を下ろした瞬間、不意に男と目が合った。

普段は深くて落ち着いた彼の瞳に、今は焦りが滲んでいる。詩音の視線に気づくと素早く隠した。

「誰からだ」

続けて、和也が問う。

「琴音は?」

詩音は黙った。

彼は声を落として追及する。

「さっきの電話……琴音のことか」

反応しない詩音に、和也の顔色が一気に陰る。

彼は周囲を見回し、枕元のスマホを掴んで電話をかけた。

一本の電話を終え、和也の顔はさらにどす黒く沈んだ。

何も考えず、布団を跳ね上げてベッドから降りようとする。

詩音の瞳が縮む。すぐ立ち上がった。

「何するつもり!」

「あいつはまだ怯えてるんだぞ。どうして一人で記者の前に置いた!」

詩音は信じられないという顔で彼を見た。

幸せな結婚がただの茶番だと知ってから、心は完全に凍ったはずだった。

それでもその言葉を聞いた瞬間、微かに痛んだ。

全身が氷の底へ突き落とされたように、隅々まで冷え切っていく。

五年連れ添った夫は自分を愛していない。それどころか、妻の目の前で堂々と別の女を案じている。

自分は彼のために徹夜で走り回っているというのに。

彼はといえば、いまだに何の説明すらしようとしない。

――今の自分が、いちばんの笑い者だ。

詩音は深呼吸し、内側で荒れ狂う感情を押さえつけた。

大股で病床の足元に回り、柵を掴んで、一語一語刻み込む。

「説明しなさい。あなた、私に借りがあるはずよ」

和也の呼吸が僅かに止まる。

詩音は身を翻してテーブルのスマホを拾い、現在の状況を表示させてベッドへ放った。

和也は反射的にそれを掴む。

画面いっぱいに、彼に関するニュースが飛び込んできた。

「株価は下がり続けてる。女一人のために殴り合いなんて、あなたらしくない」

詩音の声は冷たい。

「説明する気はないの?」

「俺の落ち度だ」

和也は長く息を吐き、感情を落ち着かせて眉を寄せる。

「後で説明する。だが、彼女が――」

「広報はもう動かしたわ」詩音は遮る。

「あなたと彼女は、どういう関係なの」

和也は頬の内側に舌を当て、薄い唇を結ぶ。沈黙のまま詩音を見つめ、やがて掠れた声が落ちた。

「……ただの同級生だ」

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