第1章 平凡な労働者

シェリーの前世は、ライアン家から流れ落ちた「本物の娘」として始まり、そして終わった。

ライアン家――N市を牛耳る頂点の財閥。金と権力でルールそのものを書き換え、無数の人間の生死と運命を掌で転がす一族だ。

見つけ出され、屋敷へ連れ戻されると聞いたとき。

シェリーは当然、こう信じた。やっと家族に愛される。大事に掌の上に乗せられて、守られて生きていけるのだと。

けれど実際に、溺れるほどの愛情と関心を注がれていたのは――彼女ではなかった。

彼女が行方不明になったあと、家はソフィアという少女を養女に迎えていた。

天使みたいに明るく眩しく、貴族社会が理想とする「令嬢像」をそのまま形にしたような子。

八歳のシェリーが、スラムの酸っぱい臭いをまとったまま豪奢な庄園へ引き戻されたとき、待っていたのは血の温もりではなく、冷たい視線とむき出しの敵意だった。

イートン私立貴族学院では、選民意識に凝り固まった子どもたちが彼女を茶菓子代わりに笑いものにした。

わざと足を引っかけ、からかい、陰湿に追い詰める。

実の両親も、兄たちも、いつだってソフィアの味方。

シェリーに向けられるのは嫌悪だけ。「家の汚点」を見下ろす目だけ。

十六歳。

精神を削り続けた果て、学院の鐘楼から身を投げた。

絶望が、みじめな人生に幕を下ろした。

――頬を切り裂くような冷たい風。十二月の雪が肌に突き刺さる。

シェリーははっと目を開いた。

荒い息を吐き、胸が痛いほど膨らむ。だが、鐘楼の下の冷たい石畳もない。骨が砕ける激痛もない。

視線を落とす。

しもやけだらけの小さな手。身に着けているのは、擦り切れた灰色の服。

……生きている。

しかも、戻っている。

五歳の自分に。東区の児童養護施設――朽ちかけた大鉄門の外で、震えながら縮こまっていた、あの頃に。

鉄錆の混じった冷気を深く吸い込み、シェリーの目がゆっくりと澄んでいく。

ここは狂った都市だ。階級の壁は中世の鉄幕みたいに分厚い。

名門財閥がすべてのルールを握り、法律なんて底辺を縛る紙切れにすぎない。

下層民の命は下水道の鼠より安く、闇市と抗争が日常。

前世のライアン家は、その吸血鬼どもの中でも最上位。冷酷で、傲慢で、血の温度など最初から持っていなかった。

シェリーは痩せた身体を抱き締め、胸の奥で誓う。

今世は絶対に、ライアン家に見つからない。あの人食いの貴族社会に二度と踏み込まない。

ただ、どこにでもいる底辺の家庭で、平凡に暮らしたい――それだけだ。

施設の職員たちは救済食料の点検に追われ、門の外で凍えている孤児など眼中にない。

シェリーは警戒心の強い子猫みたいに、錆びた鉄門の脇にしゃがみ込み、通りを行く人々を観察した。

黒い防弾キャデラック。窓が半分開き、男の冷たい横顔とホルスターが見える。――ダメ。ギャングか私設警備。危険すぎる。

高級仕立てのコートにアフガン・ハウンドを連れた貴婦人。目は露骨な嫌悪を帯びている。――ダメ。上流の縁辺。ライアン家と繋がる可能性がある。

そうして時間が流れ、視界にひとりの男が入った。

三十代半ばだろう。洗いすぎて色の抜けた濃茶のジャケットに、埃のついたストレートジーンズ、擦り減ったワークブーツ。

ブランドの匂いなど一欠片もない。無精髭、安い紙袋、社畜特有の疲れが滲んだ淡い目。歩幅は遅く、ただ人混みに流されるように歩いている。

シェリーの目がきらりと光った。

――この人だ。

生活に押し潰され、背後に何もない、ただの平凡な労働者。安全度は極めて高い。

男が施設の門を通り過ぎようとした瞬間、シェリーは階段を駆け下りた。

凍瘡だらけの小さな手で、洗い褪せたジャケットの裾をぎゅっと掴む。

サイラスが足を止め、見下ろした。

深い瞳に、ほんの一瞬だけ鋭さが走る。だがすぐに、何でもないような平淡さで覆い隠された。

自分の太腿ほどの背丈しかない、骨ばった少女。

サイラスは眉をわずかに上げる。

シェリーは顔を上げ、澄んだ、飢えるほどの目で真正面から見つめた。声は幼いのに、言葉は妙に明瞭だった。

「……あなた、娘……必要?」

サイラスは答えない。まるで、道に落ちていた不意の拾い物を値踏みするように、静かに彼女を見る。

拒まれるのが怖くて、シェリーは早口で畳みかけた。

「わたし、名前ない。でもいい子。食べるの少ない。掃除できる、洗濯も自分でできる。ぜったい迷惑かけない。もしわたしを養子にしてくれたら、大きくなったら必ず恩返しする」

サイラスの胸の内で、短い綱引きが起きる。

面倒は嫌いだ。この地区で素性の知れないガキを拾うなんて、普通ならやらない。

……だが、脳裏に浮かんだのは妻、ヴェラの顔。

娘への執着は年々強くなり、最近は精神状態が危うい。向かいの貴族幼稚園から金髪の子を「連れてくる」と喚き、下手をすれば特警が来る騒ぎになりかねない。

この子を連れて帰れば、ヴェラの暴走を止められるかもしれない。

サイラスはゆっくりとしゃがみ、シェリーと目線を揃えた。

ざらついた指が、凍傷みたいに赤くなった頬をそっとなぞる。粗い感触に、シェリーの肩がびくりと揺れる。

「いい子で、手がかからなくて、迷惑をかけない……か」

低く掠れた声。どこか気怠げ。

「うん。約束する」

「……いいだろ」

サイラスは立ち上がり、手の埃をぱんぱんと払う。

「今日言ったこと、忘れるな。大人しくしてりゃ、家の飯が一口増えるだけだ」

養子縁組の手続きは、笑えるほどあっさり終わった。

施設の職員は早く帰りたいらしく、サイラスが差し出した油染みの小銭の束を見ると、身元確認すら省き、ガリ版刷りの書類を出して署名させただけ。

「おいガキ、名前がねえと書けねえんだが」職員が机を叩く。

シェリーは前世の屈辱を象徴するライアンの姓を迷いなく捨て、サイラスを見上げた。

「シェリー。わたし、シェリー」

門を出ると、冷たい風が頬を打つ。

シェリーは短い足で必死にサイラスの歩幅に合わせようとしたが、すぐに遅れていく。

サイラスが振り返り、ため息をついた。

そして大股で戻ってくると、片手で小鳥でも掴むみたいにシェリーを持ち上げ、そのまま広い肩に担ぎ上げた。

「書類にサインした以上、これからはパパって呼べ」

風の中、声だけが妙にぶっきらぼうだ。

シェリーは硬い肩に頬を寄せ、小さく従った。

「……うん。パパ」

ボロい中古のシボレーが路肩に停まっていた。サイラスはシェリーを助手席に押し込み、西区へと走らせる。

三十分後。車は典型的な中産階級の一戸建ての前で止まった。

枯れた芝生、剥げかけたポーチの塗装。何もかもが普通で平凡で――シェリーが思い描いた「安全な避難所」そのもの。

サイラスが鍵を取り出し、ドアノブを回す。

シェリーは彼の背中の後ろで、胸を弾ませていた。平凡で穏やかな新生活。娘を欲しがる普通の母親、ヴェラとの対面。

……けれど、誰が想像するだろう。

彼女が適当に選んだこの、安物ジャケットのくたびれた通りすがりの男が、地下世界全体がその名を聞くだけで震え上がる、国際懸賞榜の常連トップ――逃亡中の殺し屋だったなんて。

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