第10章 君には関係ない
帰りの車内は、空気がひどく重かった。
リアムは後部座席のいちばん右に身を沈め、瞼を半分だけ落としている。長い睫毛が影をつくり、日向でだらりと伸びる病弱な猫みたいだ。
窓側に置いた手首は、さっきシェーンに針を抜かれたばかり。袖口はまた、彼の手でゆっくりと折り返され、青白い肌が一筋だけ覗いていた。
シェリーは、リアムとシェーンに挟まれて座る。
ヴェラはバックミラーを何度も角度を変え、三人がきちんと映るのを確かめると、普段より強くアクセルを踏み込んだ。
「ママ」
不意にリアムが口を開いた。声は柔らかく、甘えるみたいに。
「……あの子の髪、触ってもいい?」
「だめ」
「どうして?」
「指に、今朝のがまだ残ってる」
リアムは小さく笑い、手をカーディガンのポケットへ戻した。
シェリーは膝の上に置いたずっしりした万年筆へ視線を落とし、指の腹で尻のあたりをゆっくり撫でる。
左隣のシェーンは、腕一本まるごと張り詰めていた。撃鉄の起きたバネみたいに。
ふいにシェリーが横を向き、顔を上げてリアムに笑いかける。
「リアム兄さん」
リアムの睫毛が、ふわりと持ち上がった。
「そのセーター、かわいい」幼い声で、でも妙に落ち着いて言う。「わたしのウサギのパジャマと同じ色」
車内が、しんと静まり返った。
リアムは首だけを少し傾け、まじめに二秒ほど彼女を見た。口元の、いつもの薄い笑い――その奥に初めて、何か本物が混じった気がした。
そしてまた、目を閉じた。
「……ありがと」
夕食の席には、食器がひと組増えていた。
リアムの前にあるのは、骨を抜いた白身魚の蒸し物。塩は一粒も使っていない。添えられているのは小さく刻まれた青リンゴ。
銀のフォークでゆっくり突き、二度つついて一口。十九世紀の油絵みたいに整った食べ方だ。
シェーンの前にも、同じ魚。
シェリーの前だけは、皮目をこんがり焼いたやつで、黒胡椒とレモンの欠片が散っている。
「ママ……」シェリーが小さな声で訊く。「どうして兄さんたちの魚、塩ないの?」
「リアム兄さんはナトリウム摂りすぎると不整脈が出るの」ヴェラはクリームスープをひと匙すくって彼女のほうへ寄せた。「シェーン兄さんは、塩が嫌い」
「ふうん」
リアムが目を上げ、にこりと笑う。
「妹ちゃん、一口ちょうだい?」
「リアム」
「冗談」目を落とし、声の甘さだけを残す。「ママ、今日はずいぶんピリピリしてるね。目の前で何かするわけじゃないのに」
「目の前ではしないわね」ヴェラは優しく笑う。「だから今夜から、廊下の突き当たりの空き部屋も空き部屋だし、そこに寝なさい」
「彼女から、どれくらい?」
「七メートル。ドア三枚ぶん。いちばん外側の部屋はシェーンが寝る」
リアムは気怠げに「へえ」とだけ返した。
夜、十一時。
シェリーの部屋は二階のいちばん奥。もとは東向きの小さな書斎だったのを、ヴェラが一晩で娘の部屋に作り替えた。
壁は淡いアプリコット色。今日選ばれた夜灯が、ぬくい黄の輪を床に落としている。
眠りは浅い。
児童養護施設で身についた警戒心。それが生まれ直してさらに分厚くなっている。
廊下の向こうから、ごく軽い「カチ」という音。
金属の探針が、鍵穴の芯をいじるような――そんな音だ。
シェリーは目を開けたが、動かない。右手だけを布団の中からそっと抜き、枕の下の万年筆を握る。指の腹を尻のボタンに当て、押し込まずに止めた。
ドアノブが、かすかな力で回される。
鍵は掛かっている。
外の人物は無理にこじ開けようとはせず、何かに遮られたみたいに動きを止めた。
続いて、もうひとつの足音。さらに軽く、さらに安定した歩き方。
「リアム」
シェーンの声だった。
シェリーは裸足でベッドを降り、つま先立ちでドアまで行き、耳を板に貼りつける。
「……シェーン。夜中に寝ないで妹のドア前にしゃがんでるとか、ロリコン?」
「夜中に寝ないで俺の妹のドア撬いてるとか、ロリコン?」シェーンが、そのまま返す。
リアムが鼻で笑った。
「ちょっと話したいだけ。昼は人が多くて言えないこともある。兄として新しく来た妹ちゃんを気にかけるの、そんなに変?」
「袖口の針、抜いた?」
「抜いたよ」
「もう一本は?」
リアムの気配が一瞬止まる。
「……シェーン。踏み込みすぎだ」
「踏み込みすぎてるのはお前だ」シェーンの声が冷たくなる。「パパが出る前に何て言ったか、忘れたのか。俺は忘れてない。今のお前、ドアまで半メートルだ」
「触ってない」
「触るつもりだった」
「……」
「リアム」シェーンが半歩前に出る気配。「ママがわざわざ屋敷から引っ張って帰した。パパも出る前に、シェリーにだけ『お前には近づくな』って言った。自分が狂犬扱いで警戒されてるのが腹立つんだろ。今夜、あの子をちょっと脅して泣かせて、ママのところへ行かせる。そうすりゃママは『この子、うちじゃ無理』ってなる。勝手に出ていく――そう狙ってる」
廊下が、長い沈黙に沈んだ。
「……お前」ようやくリアムが言った。初めて、感情の棘が滲む。「いつから人の心が読めるようになった?」
「読まなくてもわかる。俺でもそう考える。でも、俺はやらない」
「なんで?」
「無駄だから。あの子は場所を奪いに来たんじゃない。奪う気なら、今日の午後、屋敷の門で泣いてる。泣かなかった。笑って、お前のセーターが似合うって言った」
リアムは黙った。
「戻って寝ろ。明日、お前のアレを取りに行くの、俺が付き合う」
「……アレ?」
「暖炉の、緩んだレンガの裏に隠してる鉄箱。それと温室の霧化装置の予備ノズル。あと、裏地に縫い込んだ針が三本」
「シェーン……いつ触った」
「お前が車降りて手を洗ってたとき」
「……」
「寝ろ」
やがて、ゆっくりした足音が遠ざかっていく。反対方向へ。
シェリーはドアの内側でしばらく立ち尽くし、それからそっとベッドへ戻り、万年筆を枕の下へ戻した。
眠れないまま、天井に映る暖かな光の輪を見つめる。
午前三時。
廊下の突き当たりの客室の扉が、内側からゆっくり引かれた。
リアムは濃いグレーのカーディガンを羽織り、裸足のまま。長い髪は肩までだらりと落ち、琥珀色の瞳が人感灯の下でぞっとするほど光っている。
向かったのはシェリーの部屋じゃない。
まっすぐシェーンの部屋の前へ行き、手を上げてノックした。
扉は、ほとんど即座に開いた。
シェーンは同じ黒いタートルネックのまま――最初から寝ていなかったのがわかる。
「返せ」
リアムが手を差し出す。掌を上に向けた、要求の形。
「返さない」
「シェーン」
「リアム」シェーンは半身を退け、扉を大きく開いた。
机の上には、きっちり並べられた鉄箱。予備ノズルが四つ。髪の毛ほど細い銀針が三本。さらに、髑髏のラベルが貼られた透明な小瓶が一本。
「自分で入って取れ」シェーンが言う。「取る前に質問に答えろ」
「……聞けよ」
「今夜、あの子のドアまで行ったのは、本当に脅すだけだったのか?」
リアムは答えない。
裸足で絨毯を二歩、机の前で止まる。琥珀の瞳がその一列を低くなぞり、持ち上がって弟を見る。
「本音が聞きたい? それとも聞き心地のいいやつ?」
「本音」
リアムは、薄く笑った。
「本音は……俺にもわからない」
シェーンが見据える。
「階段を降りるときは、脅してやろうって思ってた。廊下の途中では、鎖骨のあたりを押して、明日動けなくしてやろうって思った。ドアの前まで行ったときは――」
言葉が途切れる。
「何を考えた?」
