第2章 農場主
鍵が「カチャ」と鳴った。
扉の向こうに立っていたのは、ベージュのカシミヤセーターを着た女だった。湯気の立つブラックコーヒーを片手にしている。
茶色の巻き髪は一分の乱れもなく、碧い瞳は――サイラスの背後にいるシェリーを見た瞬間、ぎょっと見開かれた。
カップを落としかけ、女は数歩で駆け寄ってくる。瞳の奥で、熱に浮かされたみたいな光が弾けた。
「サイラス、あなたまさか本当に街で――」
言いかけた言葉を喉の奥で噛み潰し、次の瞬間には蜜みたいに甘い笑顔に差し替える。
そして彼女はシェリーを一息に抱き締め、冷たい額へ頬をすり寄せた。
「あなた、本当に……こんなに可愛い天使を連れてきてくれたのね。私はヴェラ。あなたのママよ」
香水の匂いのする抱擁は、少し息が詰まるほど強かった。
反応が過剰だ。隠しもしない危うさ――薄く、狂気の匂いすら混じっている。
けれど、その腕の中は……あまりにも温かい。
前世、ライアン家の氷室みたいな屋敷で、こんなふうに抱き締められた記憶は一度もなかった。
胸の奥に刺さった小さな違和感を握り潰し、シェリーは従順に抱き返す。幼い声で、柔らかく。
「……ママ」
夜。客室にはふかふかのウールの絨毯。
ヴェラはベッド脇に腰を下ろし、指先に修復クリームを取って、凍瘡だらけのシェリーの頬へ丁寧に塗り込んでいく。
「痛い?」
シェリーは首を振った。
「痛くない。ありがとう、ママ」
「今夜はママと一緒に寝る? 心臓の音を聞きながら眠れるわよ」
「大丈夫。わたし、もう五歳だもん。ひとりで寝られる。ママも早く休んで」
――ベタベタする子どもは嫌われる。面倒な子ほど、真っ先に返される。児童養護施設で身に染みた、生存の知恵だった。
ヴェラは少しだけ寂しそうに目を伏せたが、それでも額にキスを落とし、布団を整え、静かに部屋を出る。
扉が閉まった瞬間。
シェリーの瞳から幼さがすっと消えた。
彼女は、十六歳の魂を抱えたまま生まれ直したのだ。
この家に足を踏み入れた一秒目から、見えていた。
玄関の靴箱の下に転がっていた、一般の口径とは違う真鍮の薬莢。サイラスがジャケットを脱いだとき、腰に浮いた不自然な膨らみ。
そしてヴェラの手。手入れは完璧なのに、虎口と人差し指の側面には厚い胼胝――銃を握り続けた者のそれ。
……だから、どうした。
シェリーは寝返りを打ち、陽だまりの匂いがする洗剤の香りの布団へ顔を埋めた。
ライアン家みたいに手が届く存在じゃないのなら。
家として受け入れてくれるのなら。
見なかったことにできる秘密が少しくらいあっても構わない。
見抜いても言わない。雨風をしのげる場所がある――それだけで十分だ。
同じ頃。
一階の地下室だけは空気がまるで違った。
ヴェラは防音扉を閉めると、さっきまでの温和さを脱ぎ捨て、折りたたみ椅子に腰を落とす。
向かいにいるのはサイラス。そして影からぬっと出てきた六歳の少年――シェーン。四人目の息子。
「今日から私たちは、この辺りでいちばん普通の家庭よ」
サイラスは火を点けていない煙を咥え、両手を広げてみせる。
誰が想像するだろう。
この安物ジャケットの男が、国際的地下暗殺組織の首魁で、長年、国際刑事と各地の裏社会の懸賞榜の頂点に居座り続けているなど。
そしてヴェラもまた、かつてはそのサイラスを狙った女だった。互いに銃口を突きつけ合い――修羅場で恋に落ちた。
「……あのガキども、どう説明する?」サイラスが眉間を揉む。
「一人ずつ言えばいいだけ」ヴェラが鼻で笑った。
息子たちは皆、仇敵の暗殺と国際逃亡の銃弾の中で育った。
アーサーは私立貴族病院の医師。表の顔は白衣、裏では地下の揉め事を手術で片づける。救うより殺すほうが早いメス。
サイモンは市局に潜り込み、上級警員として両方の人脈を握る筋金入り。
リアムは偏執的で、気分ひとつで連続爆破を起こすタイプ。今は郊外の屋敷に押し込めて療養させている。
「特にリアムよ」ヴェラの目が冷える。「シェリーには近づけない。あの子は児童養護施設出の、ただの普通の女の子。誰が私の天使を泣かせたら――頭を捻ってボールみたいに蹴る」
サイラスは、ヴェラが娘欲しさにやらかした数々を思い出し、背筋がひやりとした。
男の子が四人続けて生まれた頃、彼女は半ば正気を失っていた。真夜中にどこからか仕入れた怪しげな呪いを信じ込み、公墓へ行って「先祖の墓を掘り返す」と言い出したのだ。
しかも暗闇で掘り間違え、地元マフィアのドンの棺の蓋を開けてしまった。
その夜、二人は数百人に三つ先の通りまで追い回された。
地下世界の未解決事件。――当事者はここにいる。
「心配すんな」サイラスは真顔で言った。「誰より普通に見せてやる」
翌朝。
ヴェラは徹夜で買い漁った子ども服を山ほど抱えて帰ってきた。興奮気味にシェリーを布団から引きずり出し、ふわふわの兎の着ぐるみルームウェアを着せる。背中には丸い短い尻尾まで付いていた。
高いヘアオイルで枯れた髪を梳かし、丸いお団子を二つ。
鏡の中の自分が、どこか遠い。
「リビングで遊んでて。ママ、パンケーキ焼くわ」ヴェラが頬をつんとつつく。
モコモコのスリッパでリビングに出ると、絨毯の上に六歳くらいの少年が座っていた。
金色の細かな髪。ショーウィンドウの最高級の人形みたいに整った顔立ち。だが、蒼い目は年齢に釣り合わない冷淡さを宿している。
シェーン。
彼は兎の寝間着とお団子頭を一瞥し、なぜだか気に入ったような、気に入らないような顔のまま――無表情で五階のルービックキューブを差し出した。
火薬臭い家に突然現れた毛玉が、思ったより悪くない。そんな気分だったのかもしれない。
シェリーは受け取り、絨毯に座ってぎこちなく捻る。
十数分。額に汗を浮かべ、ようやく一面だけ揃えた。
シェーンは小さく息を吐き、片手で奪い取る。
カチカチカチ……十秒もかからずに復元し、シェリーの手に押し戻した。
シェリーは目を丸くして固まった。
シェーンの中で、静かに結論が落ちる。
新しく来た妹――ちょっと、馬鹿だ。
だが、それでいい。馬鹿なほうが長生きする。
シェリーがキューブを抱えて立ち上がると、ソファに沈んだサイラスが本を読んでいるのが目に入った。
覗き込む。
『牧場牛の産後ケアとメンタル管理』
「パパ、どうしてこんな本読んでるの?」
サイラスの手が、ぴたりと止まった。
暗殺ターゲットの資料を挟んでいるなんて言えるわけがない。
咳払いし、本を閉じる。
「おお、シェリー。実はパパ、牧場主なんだ。郊外に広い草地があってな、牛と羊を飼って暮らしてる。大変だが、堅実だ」
シェリーの目がぱっと輝いた。
牧場主。青空、草原、モーモー鳴く牛。ギャングも財閥もない。
彼女はサイラスの胸に飛び込み、小さな手で襟元を掴む。声は幼いのに、決意だけは揺るがない。
「パパ! わたし大きくなったら牧場を手伝う! いちばんの牧場主の後継者になる!」
サイラスの口元が引きつる。
硬い笑顔で、お団子頭を撫でた。
「……お、おう。いい心意気だ」
その直後。
「シュッ」
キッチンのほうから、銀色の軌跡が客間を切り裂いた。
「ガンッ!」
銀のナイフがシェリーの鼻先をかすめ、テーブルの果物皿の赤い林檎を真っ二つにし、刃が無垢の木へ深々と突き刺さる。
柄がぶるぶると震えたまま、リビングは一瞬で凍りついた。
