第3章 もう百歳以上でしょう?

サイラスのまぶたが、ぴくりと跳ねた。

妻の腕は昔と変わらない。あれが首だったなら、今ごろ掃除屋を呼ぶ段取りだ。だが――ここで崩れるわけにはいかない。

ぎこちなく唾を飲み込み、ソファの肘掛けを掴む指に力が入りすぎて、革が軋む。下手をすれば穴を開けるところだった。

……それなのに、シェリーは泣かなかった。

サイラスの腕の中で顔を上げる。瞳は熱を帯びたみたいにきらきらしている。

「パパ! わたし、大きくなったら牛さんの出産、手伝う! それに収穫機も運転できるようになる! 家族みんなで一生暮らして、ずっと一緒! 絶対、離れない!」

前世。ライアン家の、氷室みたいに冷たい屋敷で。

シェリーはコルセットで身体を締め上げられ、来る日も来る日も歪んだ貴族の作法を叩き込まれていた。

誰も、彼女をまっすぐ見なかった。

十六歳のときには、暴力癖のある政治家一族への政略結婚の話まで、当たり前みたいに進んでいた。

あの輪の外にいられるなら――牛糞の匂いを一生嗅いだって、自由だ。

レースのエプロンを結んだヴェラが、キッチンから出てくる。

笑顔は砂糖漬けみたいに甘いのに、手にした骨スキ包丁の刃は眩しいほどに光っていた。

彼女はサイラスの襟首をひょいと掴み、小鳥を引きずるみたいにキッチンへ引っ張り込む。

「バンッ!」

扉が閉まる衝撃で、枠の埃がぱらぱら落ちた。

「……脳みそ、牧場の牛糞で燻されて腐った?」

ヴェラは声を落とし、刃先をサイラスの顎下にすべらせる。冷たさに背筋がぞくりとした。

「牧場主? 次は何? 芝刈り機で人間を細切れにして肥料に混ぜる方法でも教える気?」

サイラスは慌てて両手を上げ、媚びた笑みを作る。

「頼むよハニー。見ただろ? 俺が何言っても信じるんだ。目なんて肉見た子犬みたいにキラキラでさ。これが君の言ってた『普通の家庭』ってやつだろ? 演技いらずの、リアル路線!」

「純粋は馬鹿じゃないの」ヴェラの目が細くなる。「でも本物の馬鹿にしちゃ駄目。ここであなた色に染めて野生児にするつもり?」

刃を引っ込め、にっこり笑った。

「明日、イリ国際幼稚園に入れる。異議なし」

「東海岸でも指折りの貴族幼稚園だぞ。財閥の跡取りと政治家の子だらけだ。ウサギを狼の巣に投げ込むようなもんだろ」

「シェーンも一緒に行かせるわ。あの子、地下室で発明ばっかり。たまには普通の人間に触れなさい。ついでに妹の護衛」

ヴェラはさらりと言う。

「誰かがシェリーの髪一本でも触ったら、シェーンにそいつの家ごと吹き飛ばさせる」

夕食。

シェリーの前にはステーキとソーセージ、マッシュポテトが山みたいに盛られていた。小さな手でナイフとフォークを握り、大口で肉にかぶりつく。豪快なのに下品じゃない。児童養護施設で奪い合って覚えた、生き残るための食べ方だ。肉が食べられなければ力が出ない。力が出なければ、生きられない。

向かいのシェーンの皿には、生野菜が少し。オリーブオイルが薄く光っているだけ。

銀のフォークでケールを摘まみ、ゆっくり噛む顔は、まるで産業廃棄物の処理でもしているみたいに冷淡だった。

「シェーン、肉食え。電柱みたいに細いぞ。風で折れる」

サイラスは血の残るステーキを押しやり、いかにも慈父の顔をする。

シェーンは目も上げない。

「肉の消化は血中の酸素を無駄に消費して神経活動を鈍らせる。俺はそんなもので、君みたいに馬鹿になりたくない」

シェリーは頬を膨らませ、口いっぱいの肉のまま反論した。

「お肉食べないと力つかないよ! 悪い人が来たら逃げられない! 泣いていじめられるだけ!」

シェーンがちらりと彼女を見る。

「悪い人に必要なのは脳と、袖口の高性能爆弾。太腿で殴り合う野蛮な発想じゃない。君の力なんて、相手の痒いところを掻く程度だ」

どちらも譲らない。

「はい、決まり」

ヴェラが宣告した。

「明日からシェリーとシェーン、イリ国際幼稚園ね」

シェーンは即答する。

「行かない。あの連中の知能じゃ基礎微積分すら理解できない。一緒にいるのは人生の無駄。地下室で独学してたほうがまだマシだ」

「却下」

ヴェラは笑いながら、パイを切り分けてシェーンの口へぐいっと押し込んだ。

「行かないなら、地下室の禁制試薬と雷管は全部下水に流す。顕微鏡もスクラップとして売るわ」

笑顔のまま、声だけが冷える。

「あなたの最優先任務は妹の護衛。理解した?」

シェーンは母を睨みつけ、悔しさを目に溜めながらも、結局ぱさついたパイを飲み込んだ。

そして、氷みたいな目でシェリーを見る。――全部お前のせいだ。そう言いたげに。

シェリーは無垢にぱちぱち瞬きをして、知らないふりでステーキを食べ続けた。口元にソースがちょんと付いたまま。

翌朝。

ヴェラはシェリーをこれでもかと着膨れさせた。防寒肌着の上に白いダウン、赤いマフラーを三重に巻き、ニット帽には大きなボンボン。歩くたびによちよち揺れる、丸い小さなペンギン。

三十分後。

塗装の剥げた中古のシボレーが、「ガタン」とイリ国際幼稚園の角に止まった。車体の一部は塗装が欠け、周囲から完全に浮いている。

粗悪な防爆フィルム越しに外を覗いたシェリーの笑顔が、固まった。

鋳鉄の装飾門は威圧的で、門章には純金の校章。目が痛いほどきらきらしている。

並ぶのはロールスロイス、マイバッハ、ベントレー。燕尾服の執事と白手袋の護衛がドアを開け、特注の制服に身を包んだ坊ちゃん嬢ちゃんが、鼻高々に門をくぐっていく。小さな大人の行進。

――前世のライアン家の空気と、まったく同じだ。

シェリーはサイラスを睨みつけた。

「パパ……普通の牧場主なんだよね? ここの学費、うちの牛を全部売っても……パパまで売っても、払えないでしょ」

サイラスの目が泳ぐ。口が勝手に動く。

「い、いや、シェリー。実はな……ここの園長先生、昔はホームレスだったんだ。餓死しかけてたところにパパが心を痛めて、牛乳を二週間分分けてやった。そしたら出世してな、恩を忘れないって、学費免除で――その、どうしてもって言われてさ。断れねえだろ?」

シェリーは五歳の顔で、五歳とは思えない冷えた笑みを浮かべた。

小さな指で、門の外の磨き上げられた大理石の碑を指す。

「パパ。ここに書いてあるよ。1920年創立。ロスチャイルド家と複数の財閥の共同出資。園長は理事会が任命って」

彼女はゆっくり首を傾げる。

「パパ、1920年に牛乳分けたの? じゃあ今、100歳超えてるよね?」

サイラスの作り笑いが固まった。喉仏が、ごくりと動く。

――石碑の文字、見落とした。

心の中で自分を何百回も罵る。

シェリーは車のドアを押し開けた。

名門の子どもたちが列を成して吸い込まれていくのを、じっと見つめる。掌には汗。指先は白い。

この場所で、本当に前世のしがらみから逃げ切れるのか。

胸の奥に、小さな疑問符が生まれていた。

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