第4章 彼女だけを特別扱いした
門が背後で閉まり、鈍い「カチャ」という音がした。
シェリーは白いラムスキンのショートブーツで、小石の敷かれた小道を一歩ごとに浅く沈みながら進む。
シェーンは半歩遅れてついてくる。両手はトレンチのポケットの奥。
制服は着ていない。黒のタートルネックセーターの上に、ヴェラが無理やり押しつけたキャメル色のコート。風に乱れた金の細髪は、肖像画から抜け出してきた小貴族みたいだった。
「……あの二人、誰?」
「制服、まだ届いてないんだろ」
「格好が……成金っぽくない?」
「園長が直で通した紙だってさ」
シェリーは横目でシェーンを見る。
六歳の男の子の肩は張りつめたまま。澄んだ蒼い目が人の波を冷たくなぞり、幼い怯えなんて欠片もない。
胸が、ひゅっと縮む。
昨夜ヴェラは言っていた。『シェーンは昔から、人が多いところが苦手。騒音と知らない匂いがすると、制御がきかなくなるの』
そのときは、「制御がきかない」が何を指すのか分からなかった。今、こめかみに浮く青筋が脈打つのを見て、少しだけ理解する。
シェリーは白いニット手袋の小さな手を伸ばし、ポケットの外から、彼が固く握りしめた拳にそっと重ねた。
シェーンの身体がびくりと強張る。反射的に振り払おうとして――
「お兄ちゃん」
シェリーは顔を上げ、声をできるだけ低くする。
「手のひら、汗かいてる」
一拍おいて、幼い声で付け足した。
「手、つないで。家の牧場を歩いてるって思えばいいよ。ここにいるの、道ばたの牛さんみたいなもん」
シェーンは彼女を見下ろした。
唇をきゅっと結び、何も言わない。けれど握った拳は、ゆっくりほどけていった。小さくて少しだけ細い指が掌に潜り込み、不器用で、でも頑固に――彼の指を一本ずつ開いて、絡め取る。
握り返してはこない。だが、振りほどきもしない。
……黙って許した。
行き止まりの並木道を抜け、正門から本館へ。
二人は同じクラスに振り分けられた。生徒は十二人。ひとり一台ずつの小さなマホガニー机は、天板が磨き抜かれていて人影が映るほどだ。
シェリーが鞄を椅子の背にかけた瞬間、隣の席の子が袖をちょいっと引いた。
「ねえ、名前は?」
金髪の女の子が淡い青の大きな目をぱちぱちさせる。鼻筋には朝食のクリームが少しだけ残っていた。
「わたし、エミリ。パパ、ヨットクラブやってるの」
「シェリー」
「シェリーのおうちって何してるの? 慈善舞踏会で見たことないんだけど」
後ろの席、三つ揃いのベストを着た男の子がすぐ口を挟む。
「どうせ新興でしょ。新興は慈善舞踏会なんて行かない」
シェリーはもう答えを用意していた。お行儀よく瞬きをして言う。
「パパは郊外で、個人の牧場を持ってるの」
教室が、半秒だけ静まった。
「ええっ」エミリの目がまん丸になる。「個人の牧場?! 純血のアンガス飼ってて、乗馬と狩りのパーティーできる感じの? ママ、ずっと欲しがってるの。パパは『次の石油配当が入ったら』って!」
周りの名家の子たちが、わっと寄ってくる。
「うちの従叔父さん、コリラドに持ってる! 毎年行って、丸焼きチキンするの!」
「牧場主って超かっこいいよね。会社より百倍いい。貴族のロマン!」
……
シェリーは斜め後ろを盗み見た。
シェーンは片手で頬杖をつき、騒ぐ同年代を「やっぱり遺伝子選別の残りカスだな」とでも言いたげな目で見下ろしている。口元が、ほんのわずかに歪んだ。
シェリーは危うく吹き出しそうになった。
「普通の通りすがりの家庭」という設定が、この子たちの頭の中で勝手に「控えめな旧家」に翻訳されている。
完璧。
一限はフランス語の導入。二限はチェロの基礎。
シェリーは前世でライアン家にねじ込まれるように叩き込まれた。こなすだけなら余裕だ。
だから、わざと鈍く見せる。発音をいくつか外し、弓の運びもあえて音を汚す。
シェーンは最初から最後まで口を開かない。
先生が自己紹介を促すと、彼は冷えた声で「シェーン」とだけ投げ、教科書の余白に何かを導き始めた。シェリーには分からない化学式。先生が覗き込んだ途端、顔色がすっと変わり、何も言わずに教壇へ戻っていく。
昼食の時間。
イリの食堂は、もはやミシュラン三つ星の個室みたいだった。小さなテーブルごとに真っ白なクロス。弁当箱は各家庭の執事が手渡しで運ぶ。フォアグラのプチプリン、マカロン、ミニサイズのトリュフ貝殻パスタ。
シェリーの弁当は、まだ暗いうちにヴェラが作ったものだ。フレンチトースト、目玉焼き、ベーコン、苺の小箱。素朴なのに、どれも雑誌の表紙みたいに整っている。
シェーンの前には、相変わらず冷えた茹でブロッコリーの皿と、全粒粉パンが半切れ。
エミリが自家の執事に運ばせた白鳥型のシュークリームを持って寄ってくる。
「シェリー! これひとつあげる。すっごい甘いよ!」
シェリーは受け取り、そのまま白くて丸い白鳥をシェーンの前へ押しやった。
「お兄ちゃん、はい」
シェーンは、それをゴミを見る目で一瞥した。
そして、研究報告みたいな口調で言い放つ。
「摂取するとインスリンが急上昇して、疑似ドーパミン依存を誘発する。そういうものに溺れてる君たちの姿は、糖水を注射されて制御される実験体に酷似している」
「え……」エミリの手から、フォークがぽとりと落ちた。
シェリーは顔色ひとつ変えず、白鳥を自分の前に引き戻し、がぶりと首を噛みちぎる。頬がぷくっと膨らんだまま言った。
「じゃあ、わたしはハッピーな実験幼体になる」
シェーンはぷいと顔を背ける。耳の先が、少し赤かった。
昼休み、予備クラスは隣の休憩室へ案内された。ひとり一台、カシミヤの小さなブランケットが置かれたリクライニングチェア。
他の子は三々五々、週末はどこのスキー場へ行くかで盛り上がる。
シェーンだけが分厚すぎる『有機合成化学・応用編』を抱え、いちばん隅に縮こまっていた。全身の棘を立てた小さなハリネズミみたいに。
シェリーは自分のブランケットを抱え、小さな足でとことこと歩き――何の前触れもなく、彼の隣の空いた椅子へよじ登った。
シェーンは視線すら上げない。
「……あっち行け」
「やだ」
シェリーはブランケットを体に巻きつけ、こてんと首を傾ける。ちょうど彼の肩の外側にもたれかかる形になった。
「ママがね、お兄ちゃんを守れって言ったの」
シェーンがはっと顔を向ける。
「……逆だ。守るのは俺」
「そっか」
シェリーはふぁ、と小さくあくびをした。
「じゃあ、お兄ちゃんが守って。わたしは一緒にいる。公平」
シェーンは本のページのある構造式を睨みつけたまま、しばらく一ページもめくらなかった。
休憩室は厚いベルベットのカーテンが引かれ、照明はぬくい琥珀色に落とされている。
他の子はすぐに寝息を立て始め、加湿器の白いノイズに呼吸の音さえ溶けた。
シェリーは少しだけ寝たふりをするつもりだった。けれど、児童養護施設で身についた常時緊張の警戒心は、過剰なくらい安全な空気の中でふっと緩み――本当に眠ってしまう。
丸くなった身体。ブランケットは腰までずり落ち、白いハイソックスの脚が少しだけ覗いた。空調は一定温度なのに、肌には細かな鳥肌が立つ。
シェーンの視線が、ベンゼン環から外れて、その小さな脚へ移った。
眉間にしわ。難問を解くみたいな顔。
――しばらくして。
彼は本を置き、手を伸ばした。ありえないほどゆっくり、ありえないほどぎこちなく、ブランケットの端をつまみ、少しずつ引き上げていく。
シェリーの顎の下まで、きちんと。
動きは硬い。けれど、妙に丁寧だった。
休憩室の入口で、こっそり様子を見に来た先生がその一連を目撃し、驚きのあまり無線機を落としかける。
イリ勤続十五年。億の資産で甘やかされた子は腐るほど見てきた。誰かに自分から毛布をかける子など、見たことがない。
まして、記録にはこうあるのだ。
『性格孤立傾向。対人接触を避ける。保護者の特別許可により社交の強要を禁ず』
――シェーン、と。
