第6章 もう一歩近づいてみろ
金縁眼鏡をかけた中年の男だった。スーツにネクタイ、笑い方だけは妙にこざかしい。カル街の某プライベートファンドのパートナー――その裏で麻薬王の資金洗浄を請け負っている。
サイラスは二秒ほど黙り込み、伸ばした手で彼女の団子頭をくしゃりと撫でた。いつもより少し強い。
「わかった。娘の言うとおりにする」
ドア枠の脇で、シェーンが目を細める。
彼女が指したのは、まさに父が今週いちばん始末したがっている相手だった。
天真爛漫なのか、それとも――。
五歳の子どもに策なんてあるはずがない。
たまたま運がよかっただけだ。
夕食の席。サイラスはステーキを切りながら、いかにも何気なく言った。
「来週の水曜、ちょっと外勤が入る。南のほうでサプライチェーンの話をまとめてくるんだ。家を空けるのは半月くらい」
ヴェラは顔も上げない。
「了解。新しい弾は二箱用意した。……それと、新しいガムも」
シェリーはマッシュポテトをもぐもぐしながら頷く。
「パパ、気をつけてね」
サイラスはナイフとフォークを置き、珍しく真面目な視線を彼女に向けた。
「シェリー。パパがいない間のことで、ちゃんと言っておく」
シェリーが顔を上げる。
「リアム兄さんがな」サイラスは言葉を選ぶように間を置いた。「最近、郊外の屋敷からこっちに戻ってきて、しばらく住む。ちょっと偏屈で、昼夜も逆になりがちで、ひとりでいるのが好きだ。部屋のドアに貼ってある『無断侵入者は自己責任』って紙、冗談じゃない」
シェーンが鼻で笑う。
「その紙の下、導火線が三本挟んである」
「黙れ」サイラスが睨みつけ、すぐシェリーへ戻る。「とにかくリアム兄さんはお前が嫌いってわけじゃない。ただ、人付き合いが壊滅的なんだ。廊下で向こうから来たら、避けろ。いいな?」
「うん、避ける」
胸の奥に、しっかり刻み込む。
土曜の午前。ヴェラは小さなバッグを手に、シェリーをまん丸の防寒だるまに包み、助手席へ押し込んだ。
「旧市街の通りを案内してあげる。百年続く手作りチョコの店があるの。ママ、子どもの頃から大好きだった」
シェリーは窓に額を寄せ、外を眺める。
旧市街は、イリのあたりとはまるで別世界だった。
石畳は穴だらけ。鋳鉄の街灯は錆で黒ずみ、タトゥーショップ、質屋、地下酒場のネオンが昼間からぎらついている。革ジャンの男たちが二、三人で壁にもたれ煙草を吸い、通り過ぎる人間を斜めに品定めしていた。
ヴェラに手を引かれてチョコ屋へ向かい、買い物を終えて外へ出る。シェリーは小袋のキャンディを抱え、ひと口かじった瞬間、ぱっと目を輝かせた。
「ママ、エミリがくれたのよりおいしい!」
ヴェラが笑いかけた、その背後で――
「よぉー」
口笛が鳴った。
ひょろ高い男が酒場の入口からふらりと出てくる。Tシャツの袖を肩までまくり上げ、刺青が半分覗いていた。ねっとりした視線がヴェラの顔をなぞり、次にシェリーへ落ちる。
「綺麗な奥さん、娘とお買い物?」男は舌なめずりし、数歩で距離を詰めてシェリーの顔の前へ屈み込む。酒と煙草の臭いが混じった息。「おじさんが写真撮ってやろうか? スマホの壁紙にするんだ」
シェリーは反射でヴェラの脚の陰へ半歩退いた。
怖いわけじゃない。
この目つきを、知っている。前の人生で、身なりだけ整えた坊ちゃんたちが自分を見るときも同じだった。人としてじゃない。物として測る目。
こいつはスーツを着てない分、むしろ正直だ。
ヴェラの顔から柔らかさが消えた。
シェリーをすっと背に回し、男を見上げる。
「今、なんて言った?」
男は空気を読めない。むしろ「いける」と勘違いしたのか、手を伸ばしてシェリーの頬をつまもうとする。
その指がダウンに触れるより先に――
ヴェラは片手で手首をロックし、もう片方の人差し指と中指を揃え、稲妻みたいに鎖骨の下のくぼみに突き入れた。
「ぐっ……!」
男は声にならない息を漏らす。喉を掴まれた鶏みたいに、ひと文字も出せない。右腕が、茹で過ぎた麺のようにだらりと落ちた。
ヴェラは笑った。さっきより、ずっと優しい顔で。
つま先立ちになって耳元へ口を寄せる。
「うちの娘はね、甘いもの以外は口にしないの。あなたみたいな成分は、視界に入った時点でアレルゲンよ」
指が、くぼみへさらに半分沈む。
男の額に汗が噴き、膝ががくりと崩れた。
「今日はお天気がいいから」ヴェラは手を離し、肩をぽんと叩く。「遠くへ行けば行くほど、長生きできる。わかったら、目を二回」
男は目をばちばちさせながら転げるように逃げ、道端のゴミ箱をひっくり返し、振り返りもせず路地へ消えた。
八秒もかかっていない。
街角で煙草を吸っていた革ジャンの連中が、揃って別方向に顔を向ける。
シェリーは見上げたまま、口の中の飴を噛むのも忘れていた。
ヴェラが覗き込み、また「優しいママ」の声に戻る。
「びっくりした? この先でホットココア飲む?」
「ううん」シェリーは首を振り、眩しいほどの目で言った。「ママ、今のって何?」
「ん?」
「鎖骨の下を押したら、腕が動かなくなった」シェリーは小さな手で自分の鎖骨の下を真剣に探る。「教えて。お願い」
ヴェラは一瞬、言葉を失った。
「ハニー」しゃがみ込み、風でずれたニット帽を整えてやる。「あなたまだ五歳よ。そんなの覚えてどうするの? ママがいる。誰にも触らせない」
シェリーの目が、みるみる委屈に濡れる。
ヴェラは分かっていた。初日に玄関へ入ってきた瞬間から、この子の目には「何か」がある。児童養護施設だけで育った子が持つ目じゃない――けれど追及する気はない。
ヴェラ自身の秘密なんて、車一台分詰め込める。
だったら五歳の娘に、白紙みたいな潔白を求める資格なんてない。
欲しいのは娘だ。白紙じゃない。
「ほら、口とがらせない」ヴェラは笑ってシェリーを抱き上げ、顎をぽんぽんの帽子に乗せる。「教えるわ」
「ほんと?」
「うん。ママ、昔ね――」ヴェラは目を泳がせてから言った。「T州で、プロの格闘コーチだったの。生徒もたくさん見てきたし、メダルもいくつか」
シェリーはヴェラの首にしがみつき、頬をうなじに埋める。
「ママがいちばんすごい」
ヴェラは抱いたまま車へ向かい、口元を押さえきれない。格闘コーチ。元・最上級の暗殺特務より、よほど聞こえがいい。あとでサイラスとも口裏を合わせておこう。
地下室に、新しい予定が追加された。
毎夕六時から七時。ヴェラはエプロンを結び、髪をまとめ、クッションを敷いたトレーニングスペースで形から教える。
シェーンの指の関節が、ドア枠に当たっていた。
ヴェラがシェリーの手を引いてスペースから出ると、入口にいる末っ子を見て眉を上げる。
「覗き見はいつから?」
「覗いてない」シェーンは視線を妹から外す。「通りがかっただけ」
ヴェラは小さく笑い、追及せずにシェリーを連れて二階へ上がった。スープを煮るために。
翌朝早く。シェリーが歯を磨いて降りてくると、食卓の自分の席に黒い小箱が置いてあった。
椅子によじ登って開ける。
中には変わった形の万年筆。普通のより一回り太く、ずしりと重い。蓋の内側に小さなカードが挟まっている。もう見慣れた、シェーンの几帳面すぎる字。
『尻を3回押すとペン先が出る。喉を潰せる。3m以内有効』
その下に、もう一行。
『悪夢を見たら握ってろ。計算した。毛布より役に立つ』
シェリーはカードをつまみ、鼻の奥がつんとした。
顔を上げると、階段を降りてきたシェーンと目が合う。
黒いタートルネック、ぐしゃぐしゃの髪。寝不足がそのまま形になったみたいだ。彼は彼女の視線に気づくと足を止め、耳の先まで真っ赤に染めて、くるりと踵を返して戻ろうとする。
「お兄ちゃん」シェリーが呼び止めた。
シェーンは背中を向けたまま、振り返らない。
「わたし、大きくなったら」シェリーは重い万年筆をぎゅっと握り、幼い声で言い切った。「今度はわたしが、お兄ちゃんを守る」
シェーンの肩が、ぴくりと固まる。
しばらくしてから、彼はようやく振り向き、階段の最後の一段まで降りてきた。
「シェリー」名を呼ぶ声は、驚くほど小さい。「この家では、お前が誰かを守る必要なんてない」
「でも……」
