第8章 彼女は気にかけている

サイラスが発った日は、まだ空も白みきっていなかった。

ヴェラはシェリーの肩に小さな毛布をふわりとかける。

「もう見なくていいわ。たった半月よ」

「うん」

シェリーはペンを頬に当てた。ひやりと冷たい。

「ママ、歯みがきしてくるね」

シェーンはもう食卓についていた。黒のタートルネックに、整えていない髪。目の前にはブラックコーヒーが一杯。六歳でブラックを飲むたびヴェラに三度は叱られているのに、それでもまるで懲りない。

「お兄ちゃん、おはよう」

シェーンは「ん」とだけ返して、焼いたパンを一枚、彼女の皿へ押しやった。

「食い終わったらガレージに来い。今日はジョーが送る」

イリ国際幼稚園の錬鉄門は、相変わらず仰々しいほど立派だった。

シェリーのミルク色のカシミヤのケープは、仕立てのいい制服ばかりの中でひどく目立つ。

その週、クラスの空気は変わっていた。

初日には寄ってきて「きみのお兄ちゃん、なんでしゃべらないの?」と訊いてきたエミリが、その日は授業前、声をひそめて言った。

「シェリー、昨夜ママに言われたの……あなたのお兄さんには近づかないほうがいいって」

マフラーをほどくシェリーの手が止まる。

「どうして?」

「目つきが怖いんだって」

エミリは鼻先にしわを寄せた。

「昨日ね、挨拶した子がいたのに、顔も上げなかったの。リチャードのママも言ってたわ。ああいう子は家に問題があるに決まってるって」

「それにさ」

後ろの席の赤毛の子まで身を乗り出してくる。むっとした顔だ。

「昨日のお昼休み、あたしうっかりあいつの鞄に触っちゃって。そのとき睨まれた目がすっごく怖くて、一晩じゅう悪夢見たんだから!」

シェリーはうつむいてケープの留め具を留める。何も言わなかった。

わかっている。

この一週間で、シェーンはクラスの中の孤島になった。誰も同じ組になりたがらない。昼食の時間も、彼の小さな赤木の机のまわり三卓だけ、いつもぽっかり空いている。

シェーンは気にしていない。

シェリーにはわかった。本当に、少しも気にしていないのだ。

むしろみんなが自分から離れてくれたほうが、空気が澄むとでも思っている。

でも、シェリーは気にしていた。

午後二限目の工作の時間、先生が腰をかがめて手招きした。

「シェリー、ちょっとおいで」

廊下の突き当たりにある小さな応接室で、マリアは温めたミルクを一杯注ぎ、しゃがんで彼女と目線を合わせた。

「先生ね、少し相談したいことがあるの」

シェリーはカップを抱えてこくりとうなずく。

「お兄さんのシェーンくん、とってもとっても頭がいいでしょう? でも、お友だちと遊ぶのはあまり好きじゃないみたいなのよね?」

「うん」

「何人かの保護者の方から園長先生にお話があってね……来週の月曜から、あなたはエミリの隣に移ってもらおうと思うの。シェーンくんは窓際のいちばん後ろ。あそこなら静かだし、本も読みやすいでしょう?」

カップを持つシェリーの指先に、きゅっと力が入った。

意味はわかった。

これは配置換えなんかじゃない。隔離だ。

「先生」

シェリーは顔を上げた。

「それって、ほかのお友だちのパパやママが言ったことなんでしょう?」

マリアは一瞬だけ言葉を失った。五歳の子に、そこまでまっすぐ切り込まれるとは思っていなかったのだ。

「……ええ、まあ、そういうご意見もあったの」

「じゃあ、その人たちの子のほうが、お兄ちゃんより大事ってこと?」

「ち、違うのよ」

マリアはあわてて手を振る。

「みんな同じように大事。ただ、シェーンくん自身も賑やかなのは好きじゃなさそうだし、後ろの席のほうが楽かなって」

「先生」

シェリーは静かに言った。

「このこと、先にお兄ちゃんに話してもいい?」

マリアは微笑む。

「もちろんよ」

帰りの車の中でも、シェーンはいつものように窓際にもたれ、膝の上に本を広げていた。

「お兄ちゃん」

「ん」

「今日ね、先生に呼ばれたの」

シェリーは万年筆を握りしめる。

「来週の月曜から、わたしをエミリの隣にして、お兄ちゃんは窓際のいちばん後ろにするって」

「いいじゃん」

彼はそのまま繰り返した。睫毛が伏せられる。

「後ろは静かだし、誰にも邪魔されない。おまえがエミリの隣ってのも、まあ、おまえの知能にはちょうどいい」

シェリーは息をのんだ。

「お兄ちゃんも……わたしが離れたほうがいいって思ってるの?」

「思ってない!」

「別にいい」

シェーンは顔を窓のほうへ向ける。

「どうせ、みんなそう思ってる」

家に帰ると、シェーンはそのまま階段を上がり、部屋のドアをばんと閉めた。その夜、夕食にも降りてこなかった。

翌朝。シェリーは彼の部屋の前で扉を叩く。

「お兄ちゃん、朝ごはんだよ」

「いらない」

「ママ、お兄ちゃんの好きなの作ってたよ」

「いらない」

学校へ着いてからも、シェーンは彼女の前後で車を降り、教室へ入っても彼女の机を避けて通り、最後まで一度も視線を向けなかった。

昼には、自分のお弁当の最後のベーコンを彼のパンに挟んでみた。

けれど彼は無表情のままナイフとフォークでそれをつまみ出し、皿の端へよけただけ。

お昼寝の時間には、小さな毛布を抱えて彼の隣の簡易ベッドによじ登った。

シェーンは本を抱えたまま立ち上がり、向かいのいちばん遠いベッドへ移る。

午後のフランス語の授業で二人組を作るときも、シェリーがにこっと笑いかけるより先に、彼は向かいの椅子を自分で机の下へ押し込んだ。

帰りの車では、窓際の向こう側に寄り、席ひとつぶんきっちり空けて座る。

三日目。シェリーは、もう試さなかった。

その夜、ヴェラが彼女の部屋をノックする。

「ハニー」

シェリーはベッドにうつ伏せになったまま、スタンドライトをぼんやり見つめていた。顔を上げる。

「ママ」

ヴェラはエプロンもつけていなかった。ベージュのカシミヤニットは肘までまくり上げられ、金茶の巻き髪はゆるくまとめられている。彼女はベッドの端に腰を下ろし、シェリーを腕の中へすくい上げた。

「ママに話してごらんなさい。お兄ちゃんと、どうしたの?」

シェリーは顔をヴェラの首元に埋める。

「お兄ちゃん、もうわたしのこと無視するの」

「席替えのこと?」

「うん」

「話したのね?」

「うん。先生は言わないでって言ったけど……隠しちゃだめだと思ったの」

ヴェラは娘の頭に顎をのせ、声もなく笑った。

「ハニー、あなたは正しいことをしたわ」

少し間を置いて、やわらかく続ける。

「あとはママがお兄ちゃんと話してくる」

主寝室の隣、シェーンの部屋の扉は閉ざされたままだった。

ヴェラは二度ほどノックし、返事を待たずにそのまま押し開ける。

シェーンは絨毯の上にあぐらをかき、目の前に分厚い化学の手引きを三冊広げていた。気配に気づいても、顔を上げない。

「出てって」

「母親相手に、その口のきき方?」

ヴェラは眉を上げ、後ろ手でドアを閉めると、彼の向かいに腰を下ろした。

シェーンは唇をきゅっと結ぶ。

「冷戦、三日目ね」

ヴェラは単刀直入に切り出した。

「どんな気分?」

「……冷戦じゃない」

「そう?」

「シェリーのほうが、僕から離れたかったんだ」

シェーンは本に視線を落としたままページをめくる。

「だから、その通りにしてやっただけ」

「シェーン」

ヴェラは彼の指先に手を重ね、ページをめくる動きを止めた。

「ママを見なさい」

シェーンがゆっくり顔を上げる。

ヴェラは胸の内で小さくため息をついた。

「あなたが五歳か六歳のころ、ママ、ひとつ話したことがあったでしょう。覚えてる?」

「……」

「あなたは人と違う。でもそれは欠点じゃない。才能よ。けれど才能には困ったところがあるの」

ヴェラの声は低く、静かだった。

「何でもわかった気になる。何でも計算できるつもりになる。でもね、この世には計算できないものもあるの」

シェーンは黙ったまま。

「今日、あなたの妹は、先生に言われたことを一言も省かずあなたに伝えた」

ヴェラは彼の髪をそっと撫でる。

「隠そうと思えば、いくらでも隠せたのよ。先生が気まぐれで席を替えたって言うことだってできた。それをしなかったのは、どうしてだと思う?」

シェーンの睫毛が、かすかに揺れた。

「あなたに隠し事をするのは、あなたを家族の外に置くのと同じだって思ったからよ」

ヴェラはふっと微笑む。

「あの子、あんなに小さいのに、そこまでちゃんと考えたの。なのにあなたは? 六歳でIQ180もあるくせに、最初に思ったのが『シェリーも僕から離れたいんだ』でしょう」

シェーンの耳の先が、じわじわ赤くなる。

「口に出さなきゃ、誰にもわからないの」

ヴェラは額に落ちた髪を耳にかけてやった。

「妹は人間よ。あなたの化学式じゃないんだから、放っておいて勝手に釣り合ったりしないわ」

「……」

「それに」

ヴェラは少し笑みを深くする。

「三日も無視したのに、学校であの子がエミリたちとおとなしく遊んでるのを見て、余計にむかむかしたんじゃないの?」

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