第1章 家を追い出される
遠野千絢が遠野家を出ていくその日――本当なら、静かに荷物をまとめて、誰にも邪魔されずに去れるはずだった。
けれど、玄関へ向かう直前、養母の橋本佑香に呼び止められる。
リビングのソファ。肩を寄せ合うように並んで座っているのは、遠野家の本物の娘である遠野彩芽と、小林家の放蕩息子・小林佑。
その光景を見た瞬間、遠野千絢はすべてを理解した。
両家は婚約を交わしている。小林佑はずっと、自分を「婚約者」だと言い張ってきた。高校の頃から毎日まとわりつき、手を替え品を替え、必死に機嫌を取ってきた男だ。
それが――遠野彩芽が戻ってきて、まだ一週間も経っていないのに、もう彼女とくっついている。
結局、小林佑が欲しかったのは遠野千絢じゃない。遠野家のお嬢様という肩書きだけ。
見られたと分かると、橋本佑香は隠すこともなく、薄く笑って言った。
「今日であなたは遠野家を出ていくんだから、ついでにハッキリさせておくわ。もともと小林家と婚約したのはあなた。でも、佑とは長いこと何もなかったでしょう? それが彩芽が戻ってきて数日でこうなった。――持ち主のものは持ち主のもの。奪おうとしても奪えないのよ」
そして、言葉を鋭くする。
「だから今後、佑に言い訳してまとわりつくのはやめて。二人はすぐ結婚するんだから」
大事な話でもあるのかと思っていた遠野千絢は、眉を吊り上げ、嘲るように口角を上げた。
「そのセリフ、小林佑に言えば? ずっと私に絡んできたのはあいつだし。私は興味ない」
小林佑みたいな小物、とうに見抜いている。
こんなゴミ、欲しい人が持っていけばいい。
だが、長年見下され続けてきた小林佑は、遠野千絢が偽物になってもなお清高ぶった態度を崩さないことが気に食わなかったらしい。鼻で笑い、吐き捨てる。
「偽物のくせに、よくそんな偉そうな口が利けるな? だから俺、何年経ってもお前にときめかなかったんだよ。お前がニセモノだったからだ! 月末の婚約、まだ間に合ってよかったぜ。危うくお前みたいな偽令嬢を娶るところだった!」
顔いっぱいに嫌悪を浮かべながらも、内心では惜しんでいた。
遠野千絢の容姿とスタイルは、遠野彩芽より何倍もいい。――ただ、遠野家の娘じゃない。それが致命的だった。
その厚顔無恥さに、遠野千絢は冷たく笑う。
「それ、こっちが言うセリフ。誰かが代わりに引き取ってくれて助かったわ。じゃなきゃ、いつまでその顔を見せられるところだったか」
「てめぇ……!」
ニキビ跡だらけの顔が、怒りで歪む。
遠野彩芽は彼を庇うように身を寄せ、涙ぐむふりをして口を挟んだ。
「佑、そんな言い方しないで……お姉ちゃん、傷ついちゃう……。だって、もし私が戻ってこなかったら、あなたを奪うことも、お姉ちゃんの立場を奪うこともなかった。今の言葉だって、きっと苦しくて……だから、少しだけ譲ってあげて?」
白々しい。薄っぺらい善人面。
遠野千絢はその芝居を一秒も見てやる気になれず、遮るように言い放った。
「傷つかない。ゴミが八年追いかけてきても、私は一度も気にしたことないし。むしろ、戻って一週間でそれとくっついたあなたの方がすごいわ。絶配ね」
その一言で橋本佑香の堪忍袋が切れた。
「この恩知らず! なんて口の利き方するの! だからあなたとはずっと親しくなれなかったのよ。根っからの無教養! あなたは彩芽の代わりに十八年も贅沢してきたのよ? 彩芽が清掃員の家でどれだけ苦労したと思ってるの! それなのにまだ悪口を――!」
叱責を浴びても、遠野千絢の瞳は氷のように冷たかった。
遠野家で得たものは、全部自分で稼いだものだ。
遠野周生は商才がない。若い頃に働いて金を貯め、工場を立ち上げただけで、経営の勘はゼロに等しい。
遠野千絢が陰で手を回していなければ、工場は少なくとも八回は潰れていた。
今のようにT市へ拠点を移すことも、根井区の三大富商の一角に名を連ねることも、あり得なかった。
――だが、それを夫婦に言ったことは一度もない。工場最大の出資者が自分だと、彼らは知らない。
騒ぎを聞きつけ、遠野周生が渋々階段を下りてくる。わざと眉をひそめ、善人ぶって橋本佑香を嗜めた。
「もういいだろう。子どもにそんな言い方をするな。千絢は今日からあちらの家に戻るんだ。これから苦労もあるだろうし、そもそも抱き違えたのは俺たちの責任だ。あの子のせいじゃない。出ていく日にまで寒い思いをさせるな」
偽善でも、言っていることだけは正しい。
ただ、遠野周生の胸中も複雑だった。遠野千絢は幼い頃から可憐で、正直、可愛かった。
けれど彼女が遠野家にいたせいで、十八年もの間、実の娘を探しもしなかった。結果、遠野彩芽に苦労をさせた――そう思うと、割り切れない。
遠野周生はため息をつき、遠野千絢に向き直る。
「千絢。血は繋がっていなくても、十八年育てた。俺の中では実の娘みたいなものだ。聞いたところ、お前の実の親は仕事もないらしい。困ったことがあったら、いつでも戻ってきなさい」
その瞬間、橋本佑香が肘で彼を小突いた。
「何を勝手にいい顔してるのよ。貧乏人にたかられたらどうするの!」
無職の親なんて、まともな家庭のはずがない――そう言いたいのだろう。
遠野千絢は虚ろな目で三人を見渡し、淡々と言った。
「結構です、遠野さん。それより、工場と会社の管理はご自分でしっかり。特に……身近な人には気をつけて」
橋本佑香にちらりと視線を向けた。含みのある口調だった。
会社には、本当に恩を仇で返す人間がいる。
橋本家の兄妹は長年、会社の金を抜いてきた。遠野千絢が裏で防がなければ、資金はとっくに空になっていただろう。
もし自分の生まれ育った家が本当に貧しいなら、これからは遠野家の面倒を見る暇もない。
橋本佑香はその言葉に逆上した。
「私たちがうまくいくのが気に入らないの!? 出ていく前に会社と工場を呪うなんて! まるで自分が経営してたみたいな口ぶりで! 何様よ!」
遠野千絢は鼻で笑う。
「そのうち分かる」
これから先、橋本佑香がいつまで強がれるか――見ものだ。
もう話す気も失せた。遠野千絢は立ち上がり、唯一の荷物であるリュックを背負う。
中身は身分証と、自分で買ったノートパソコンだけ。何ひとつ、遠野家のものは持たない。
だが小林佑が、最後まで嫌味を忘れない。
「伯母さん伯父さん、千絢って荷物もほとんどないし、逆に怪しくない? バッグに高い物隠してるかもしれないし、念のため調べた方がいいんじゃ?」
清高ぶっていられないようにしてやる――そんな顔。
橋本佑香もすぐ乗った。
「そうね。佑の言う通り! 開けて見せなさい。何が入ってるの!」
