第2章 控えめな高級スポーツカー
遠野彩芽が慌てて、わざとらしく眉を下げて言った。
「母さん……それは良くないよ? お姉ちゃんの家、すごく大変なんだし。遠野家の物を少し持っていったとしても、身を守るためかもしれないし……もういいじゃない」
橋本佑香は鼻で笑った。
「身を守る? あの子の部屋の物は全部、私と父さんが買ったのよ。なんで持っていく権利があるの? 親は無職のプーだって言うじゃない。ちょっと持っていったところで足しになるの?」
そう言いながら、橋本佑香は遠野千絢の背負っているリュックへ手を伸ばす。
けれど千絢は、最初からこうなると分かっていたみたいに、自分からファスナーを引いた。
「中に遠野家の物は一つもない。身分証は私の。ノートパソコンも、着てる服も、奨学金で買った」
本当なら、札束でも叩きつけてやりたい。――けれど、この数年で一家を養ってきた自分の金を、これ以上一円たりともこいつらにくれてやる気はなかった。
惜しいのは金じゃない。くれてやる価値がないだけ。
中身を覗き込んだ遠野彩芽と小林佑は、露骨にがっかりした顔をした。
――生意気なやつのくせに、意外と骨がある。
遠野家の連中が言い返せなくなったのを見て、千絢はリュックを背負い直し、今度こそ出ていこうとした。
そのとき、二階から弱々しい声が落ちてくる。
「千絢……待って……」
一同がはっとして振り向いた。
手術を終えて間もない遠野奏斗が、ふらつきながら階段を下りてきていたのだ。
橋本佑香が慌てて駆け寄り、支える。
「もう! 奏斗! 大したことじゃないんだから休んでなさいって言ったでしょ! なんで下りてきたの!」
奏斗は重度の再生不良性貧血。少し前、世に出ない名医に骨髄移植を施してもらい、手術は成功した。だが今は回復期で、興奮も運動も禁物だ。
だからこそ、奏斗に千絢を会わせるつもりはなかった――はずなのに。
千絢は、幼い頃から病弱なくせにいつも自分を庇ってくれた兄の姿に、冷え切った心がわずかに揺れて、足を止めた。
奏斗は橋本佑香を睨む。
「母さんが執事に見張らせるからだろ。だから急いだんだ」
執事が止めるのを振り切って、こうして来た。
間に合ってよかった――そんな顔で、奏斗は一枚のカードを取り出し、千絢に押しつけた。
「遠野千絢。父さんから聞いた。実の親は仕事がなくて、兄たちも……まともな職じゃないらしい。まだ学生もいるって。金が要るだろ。これは俺が貯めた分だ。何かあったときのために持っていけ」
カードの重みより、言葉の温度が胸に沁みる。
この家で本気で自分を想ってくれたのは、きっと奏斗だけだ。
彼の病気を調べ、手術へ繋げるために動いた日々も無駄じゃなかった。千絢がいちばん気がかりなのも、奏斗のことだけ。
だが橋本佑香は青ざめて叫んだ。
「何してるの! あんた、そのカード一枚しかないでしょう!? 中に何百万は入ってるのよ! なんであの子に! あの子はあなたの本当の妹じゃない!」
遠野彩芽も焦ったように目を泳がせ、それでも泣きそうな声で可哀想ぶる。
「お兄ちゃん、優しい……お姉ちゃんにはそんなに気前よくして、私には帰ってきてからあまり話してくれなかったのに……」
小林佑が、いかにも庇うように噛みついた。
「ひどくない? 本当の妹には冷たいのに、偽物にはそんなに必死って」
「お前……!」
奏斗の顔が怒りで歪んだ、その瞬間。
千絢の目がすっと沈む。手近のコップを掴むと、小林佑の顔面へ容赦なくぶちまけた。
ばしゃっ。
「うわっ! 遠野千絢! てめぇ、俺に水ぶっかけたな!」
小林家の若様は怒鳴り散らすが、千絢の声は氷の刃だった。
「小林佑。ここは遠野家。あなた、何様? 遠野家の主人に向かって大声出していい立場だと思ってるの? 兄は手術したばかりで興奮は禁物。口の利き方、考えなさい」
小林佑は両家が世交だというのをいいことに、昔から遠野家に入り浸ってきた。前は千絢にまとわりつくため、今は遠野彩芽を盾にして、ますます図々しい。
その小林佑が、奏斗にまで口を出す。――身の程知らずにもほどがある。
だが遠野周生夫婦の顔色が悪いのを見て、小林佑はさすがに黙り込んだ。
そこへ遠野彩芽が、すかさず火に油を注ぐ。
「父さん、母さん……お兄ちゃんを守るためでも、お姉ちゃんはやりすぎだよ。人に水をかけるなんて、失礼すぎる」
隙あらば刺してくる。さすがだ。
千絢はもう相手にする気もなく、カードを奏斗へ押し返した。
「兄さん。身体を大事にして。栄養のあるもの買って。これは自分のために使って」
「千絢……」
奏斗が抵抗しようとする手を、千絢がぎゅっと握る。女の子とは思えない力で、振りほどけない。
千絢は小さく笑った。
「気持ちは嬉しい。でも私は大丈夫。お金に困ってない。――それより、私がいなくなっても、ちゃんと身体を守って」
そう言って手を離し、踵を返す。
奏斗は追いすがろうとしたが、千絢はもう玄関を抜けていた。
背後で小林佑が悔しそうに吐き捨てる。
「金に困ってない? この期に及んで見栄張ってんじゃねぇよ。遠野千絢、お前ほんと、よくそんな芝居できるな!」
八年分の鬱憤を吐き出したような声。
「クソ女……」と小さく続けるのが聞こえて、千絢は鼻で笑った。
遠野彩芽は慌ててハンカチで小林佑の顔を拭き、橋本佑香はカードをひったくるように奪い取って胸を撫で下ろす。
「よかった。あの子、まだ恥ってものは知ってたのね。持っていかれたら大損よ」
門の外。
遠野家の運転手は、送る気配すらない。千絢は配車アプリを開こうとした。
そのとき、低く唸るエンジン音とともに、黒いスポーツカーが滑り込んできた。
メーカーのエンブレムは見えない。だが音が違う。
陽光を透かすように艶めく黒の塗装。覗き込むほど深い光沢。ホイールもタイヤも一級品で、どこを見ても安物の気配がない。
――金持ちの特注改造車。
大物でも来たのかと思った。けれど。
降りてきたのは、目の下に濃いクマを作り、髭も伸びた、どこか落ちぶれた格好の男だった。年は千絢より四、五歳上くらい。だらしない外見に反して、目だけは妙に澄んでいる。
男は千絢を見るなり、息を呑んだ。
「……千絢、だよな。母さんに……ほんと、そっくりだな」
