第3章 クズ男の腕を外す
家の者から「今日は千絢を迎えに行く」と聞いた夜見裕矢は、ちょうど事件を片付けて休暇に入ったところだった。ならば、と自分が寄って連れて帰ればいい。家には先に「千絢と俺が帰るから、ちゃんと迎える準備をしておけ」とだけ伝えてある。
遠野家に着いたら、誰かに紹介されて――そんな段取りが要ると思っていた。
けれど、門の前で彼女を見た瞬間、そんな手間は吹き飛んだ。
遠野千絢。
顔立ちの輪郭、目元の形。どこかで見たことがある、ではない。血の匂いがする。母と同じ型で作ったみたいな――そういう「分かり方」だった。
千絢も同じことを感じ取ったのだろう。男の顔をじっと見て、眉をすっと上げる。
「……あなた、私の兄?」
夜見裕矢は慌てて名乗った。
「そう。俺が兄さんだ。夜見裕矢」
言いながら、千絢の視線が妙に引っかかっていることに気づく。裕矢はようやく自分の格好を思い出し、視線を落とした。
麻薬組織を追って数日、ほとんど寝ていない。服も替えていない。顔も髭も、手入れする暇がなかった。そのまま迎えに来てしまった。
道中、眠気で頭がぼんやりしていて、服屋に寄って限定のスーツでも買ってから来る――そんな当たり前の見栄すら、すっぽり抜け落ちていたのだ。
「悪い。急いでて……着替えるの忘れた」
隊で「言ったことが絶対」と恐れられる男が、妹の前では珍しく居心地悪そうに目を逸らす。
千絢が「気にしない」と言いかけた、その背後から甲高い声が飛んだ。
「うわ、どこの乞食? 警備、何してるの。なんで入れたのよ!」
振り返ると、遠野彩芽が腕を組んで立っていた。門の警備員が慌てて駆け寄り、説明する。
「彩芽さん、この方が『千絢さんを迎えに来た』とおっしゃったので……」
それを聞いた彩芽は、わざとらしく目を丸くして千絢を見る。
「あっ……お姉ちゃん、ごめんね。あなたのご家族だって知らなくて……今の、気にしないで……」
千絢は冷えた目で彩芽を見据えた。
「悪いと思うなら黙って。誰もあなたの声なんて聞きたくない」
言い捨てると、彩芽を避けて裕矢の車へ向かい、ドアを開けて背負っていたリュックを放り込む。
そのタイミングで、小林佑也が外へ出てきた。さっき水をかけられた恨みを晴らす気なのだろう。
エンブレムのない車体を見つけるなり、鼻で笑った。
「へぇ。ロゴもない車とか初めて見たわ。これ、自作? 自分で組んだんだろ」
裕矢は眠そうに車体へ寄りかかり、淡々と返す。
「そうだ。自分で組んだ」
特務の車は改造が当たり前だ。特にこの一台は、弟がデザインに関わっている。博士課程にいながら国の安全機関に内定しているデザイン屋が手を入れた車は、市販の高級車とは比べ物にならない。値段も性能も、そして――いざという時の生存率も。
だが小林にそんな事情が分かるはずもない。勝ち誇ったまま、千絢へ矛先を向ける。
「まさかお前の家に車があるとはな。ロゴもないし、どうせ盗品の寄せ集めだろ」
彩芽も横から、心配するふりで刺してくる。
「お姉ちゃん、気をつけてね。盗難車だったら共犯になっちゃうかも。裁判とかになったら大変だよ?」
千絢は思わず白目を剥きかけた。
家の中で好き放題言うだけじゃ飽き足らず、外まで追いかけてきて家族を侮辱する。さすがに我慢の限界だ。
――が、千絢が口を開くより早く。
裕矢の表情がすっと冷えた。
次の瞬間、彼は二人へ歩み寄る。身長180を超える体躯が小林の前に立つだけで、空気が変わる。裕矢は肩に手を置き、低い声で言った。
「坊主。言葉は適当に吐くな。誰に教わらなかった?」
その一言で小林の顔色が変わる。恐怖で喉が鳴り、今にも失禁しそうなほど怯えた。
「お、俺は……ただの推測で……」
裕矢は鼻で笑う。
「推測? 言論の自由はある。だが、吐いた言葉には責任がつく。親が教えてないなら、俺が教えてやる」
肩を掴む指が、じわりと食い込む。
ごきり。
嫌な音とともに、小林の肩が外れた。
「ぎゃあああっ! いだだだだだ! すみません! もう言いません! やめてください!」
腕の感覚が消えたみたいにぶら下がり、小林は涙声で叫ぶ。裕矢は無表情のまま腕を持ち上げ――今度は逆に、すっと戻した。
小林は青ざめ、声も出ない。
裕矢の視線が彩芽へ移る。彩芽はびくりと肩を震わせた。目だけで殺される、そんな錯覚。
「嬢ちゃん。女は殴らない。今日は見逃す。だが次からは口を慎め。俺は家族を呪う奴が嫌いだ」
千絢を「裁判沙汰にしてやれ」みたいなことを言った、その口。
裕矢にとっては地雷だった。
彩芽は震えながら、こくこくと頷くしかない。
裕矢は圧を引っ込め、振り返ると、さっきまでの冷気が嘘みたいに笑った。
「千絢、行こう」
千絢はその落差に内心驚きつつも、素直にいい子を演じる。
「うん、裕矢兄さん」
そう言って車に乗り込む。裕矢も運転席へ回り、シートベルトを締めると、そのまま遠野家を離れた。
残された彩芽と小林は、遠ざかる車を呆然と見送る。
「……あいつ、何者だよ……」
肩の感覚は戻っている。それでも恐怖だけが消えない。小林は唇を震わせた。
彩芽は小さく首を振る。
「分からない……でも、ナンバー……T市のだった気がする。それに……警用っぽかった」
あんなにだらしない格好の男が、T市の警用ナンバー?
あり得ないと思うのに、目に焼き付いて離れない。
小林は強がるように吐き捨てた。
「見間違いだろ。千絢の生まれの家なんて、無職の貧乏人だって聞いてる。T市のナンバーなんか取れるわけない」
T市のナンバーは、地元の戸籍がなければまず無理だ。金と権力がなければ手に入らない。
遠野家ですら外地ナンバーなのに、千絢の家族がT市の人なわけがない。
――だから、見間違いだ。
そうでなければ困るのだ。
