第4章 トップクラスの富豪
去りゆく車内で、夜見裕矢はどこか気まずそうに遠野千絢へ言った。
「ごめんな、千絢。急いで来たせいで、着替えも買えなくてさ。身なりがだらしなくて……変に噂されたら嫌だろ」
今までは、何を着ていようが何を使っていようが気にしたことなんてなかった。けれどこれからは――千絢に恥をかかせるわけにはいかない。
千絢は気遣うように首を振る。
「大丈夫。服なんて、楽なのが一番だよ」
その一言で、裕矢の胸にふっと好感が灯った。
だが、千絢の足元にあるのが小さなリュックひとつだけだと気づき、思わず眉を上げる。
「……千絢、荷物それだけ? ほかは?」
千絢は小さく頷き、淡々と言い切った。
「遠野家のものは、ひとつも要らない」
その声の温度の低さに、裕矢はすぐ察した。視線がすっと冷える。
――遠野家の連中、千絢に何をした。
裕矢はハンドルを握ったまま、短く言う。
「いい。家に帰ったら、欲しいものは兄ちゃんが全部買ってやる」
千絢は柔らかく笑った。
「うん。ありがとう」
執事たちの内情がどうであれ、少なくともこの兄は、ちゃんと自分を迎えに来てくれている。それだけで十分だった。
千絢はふと、車が進む方向に目をやる。見覚えのある道筋。胸の奥がざわつき、思わず口を開いた。
「裕矢兄さん。この道……海山に向かってない?」
海山。T市でもっとも金と権勢と名声を持つ者たちが住まう場所。
上野区の大半を占めるほど広大で、山へ向かって登っていくほど、左右に並ぶのは巨大な邸宅群と、豪奢な荘園ばかりになる。
遠野家がT市に来て日が浅いとはいえ、調べはついていた。遠野家が何としても近づきたがっていた「T市十大家族」が集まっているのも、この上野区だ。
ただし海山へ入る道には検問があり、住民の招待がなければ通れない。
――なのに。
車は検問前でほんの少し減速しただけで、ナンバーを読み取られ、あっさりとゲートが開いた。
裕矢は何でもないことのように答える。
「うん。親父とお袋が家で待ってる」
その瞬間、千絢は思わず眉を跳ね上げた。
(……うちが、海山?)
遠野周生の調べはどうなっている。両親も兄弟も無職だと聞かされていたのに。住んでいる場所すら、まともに掴めていない?
――いや、あの男ならあり得る。
仕事が雑で、思い込みが強い。だから会社だって、自分が陰で回さなければとっくに傾いていた。
「無職」だと分かった時点で、勝手に「貧乏」と決めつけたのだろう。
(まあ、いいか)
家に余裕があるなら、こちらも無理に支える必要はない。
小ぶりな邸宅をいくつも通り過ぎる。そろそろ停まるかと思ったが、車は止まらない。
大邸宅の並びに入っても、まだ走る。
(……思ったより裕福、どころじゃないな)
さらに十分ほど走ったところで、車は邸宅区を抜け、荘園区へ入った。千絢は目を細める。
(なるほど。新しい家は、かなりの金持ちだ)
そう結論づけた――はずなのに、車はまだ走り続けた。
そして、最後は山頂へ。
海山と呼ばれる所以。頂上の道は遮るものが何ひとつなく、左右に広がるのは澄み切った海。潮の匂いが、窓越しに薄く届く。
その道の突き当たりにあるのは、ただひとつ。
巨大な荘園。
海昇邸。
T市中心部からでも見える、あの「城」のような建物。街の最高地点に鎮座し、遠目にも異様な存在感を放つ、象徴的な建築物だ。
国際的に第一位と謳われるデザイナー・野口龍大が監修したとも言われ、贅を尽くしながらも現代的にまとめられた大邸宅。朝は海から昇る日の出を、夜は海に沈む夕日を――最上の角度で眺められるからこそ、その名がついたという。
そして住人は謎に包まれている。
十大家族ですら及ばない存在だとか、富が国家に匹敵するとか、あらゆる業界に投資しているだとか――噂だけが独り歩きし、家族の素性は誰も知らない。表に出るのは一流の執事たちだけ。
千絢は、裕矢が景色でも見せてくれるのだろうと思った。ここを通り過ぎて、別の邸宅区へ向かうのだと。
だが――。
夜見裕矢は、その「博物館みたいな荘園」の中へ、迷いなく車を滑り込ませた。
陽光の下、中央の噴水がぱしゃぱしゃと水を跳ね上げ、眩い光を散らす。噴水の中央に立つ彫刻は、近代の名匠の作に見えた。値段など想像するだけで眩暈がする。
宝を見慣れ、真贋を見抜くことに慣れた千絢でさえ、息を呑む。
(……本物だ。しかも、上物)
車はゆっくりと正門前で停止した。
千絢がまだ状況を飲み込めないでいると、裕矢が先に降り、紳士的にドアを開ける。
「千絢。おかえり」
その言葉が落ちた瞬間。
正門へ続く赤い絨毯の両脇に並んだ使用人たちが、一斉に深く頭を下げた。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
――その光景に、千絢は一瞬、本気で撮影現場に紛れ込んだのかと思った。
「裕矢兄さん……ここ……うち?」
嘘でしょ。
金に困っていない。大きな場面も大人物も見てきた。それでも、この規模は別格だった。
千絢は、家が貧しくて、両親も兄弟も働いていなくて、自分が支えなければならない――そう覚悟していたのだ。
なのに、現実は真逆。
自分の家族が、まさか噂の「海昇邸の主」だなんて。
裕矢は千絢の驚きを見て、甘やかすように笑った。
「そう。ここが千絢の家。ほら、入ろう。親父もお袋も待ってる」
千絢は気持ちを整え、車を降りる。足元の赤絨毯がやけに現実味を奪っていく。
「……ここまで大げさにしなくても」
裕矢は微笑むだけだ。
「必要なんだよ」
千絢が外でどれだけ苦労したか――それを思えば、初めての帰宅が慎ましくていいはずがない。
そうしているうちに、絨毯の先、天井の高い大扉の奥から、ふたつの影が駆け出してきた。
「千絢なの!?」
弾むのに耳に心地いい、女性の声。
千絢が顔を上げると、シンプルなワンピースを着た中年の女性が、息を切らしながらこちらへ向かってくるところだった。
四十を過ぎているはずなのに、手入れが行き届き、まるでトップスターのように華やかで、それでいて柔らかい。上品で、優しげで――美しい。
その隣には、背筋の通った中年の男。精悍な顔立ちで、裕矢と驚くほど似ている。
(……この二人が、私の)
父と母。
「名門夫婦」という言葉が、そのまま形になったような佇まいだった。
千絢の頭の中で、さっきまでの「無職の親」というイメージが、音もなく崩れ去る。
(遠野周生……どこまでいい加減なの)
無職の貧乏人が、こんなふうに見えるわけがない。
