第5章 八百万でも高くない?

雲田伊津美はすでに遠野千絢の目の前まで来ていた。迷いなくその手を掴んだ瞬間、ふっと目尻が赤くなる。

「間違いない……この子が、私の娘よ。槙夫、見て。私とそっくりでしょう?」

夜見槙夫も、遠野千絢と雲田伊津美の顔立ちを見比べ、思わず目を瞬かせた。

「……ああ。本当に、よく似てる」

雲田伊津美は、かつて世界で名を馳せたトップスター。息をのむほど端正な美貌の持ち主だった。

だからこそ、最初は疑いもしなかったのだ。夜見美羽が取り違えられた子だなんて。

だが思春期を過ぎる頃から、夜見美羽はどんどん夫妻に似なくなっていった。周りがひそひそと噂し始め、ようやく二人も「何かおかしい」と感じるようになる。

調べ始めた矢先、遠野家のほうで取り違えが判明した。警察が夫妻と遠野千絢のDNAを照合し、最終的に彼女が実子だと確定したのだ。

本来なら、娘が戻ってから改めて検査するつもりだった。けれど、今この目で見れば――もう必要ない。

遠野千絢の顔は、若い頃の雲田伊津美と、驚くほど同じだった。

化粧などしていないのに、息を奪う美しさ。清楚で、目を離せない。

遠野千絢自身も、母とここまで似ているとは思っていなかった。

橋本佑香がずっと自分に冷たかったのも、きっとそれが理由だ。幼い頃から可愛くて、成長するほど際立っていく容姿。あまりに美しすぎて、彼女は「実の子じゃないのでは」と疑ったのだろう。

疑いを抱いて調べた結果、それは現実になった。

――やっと、本当の両親に辿り着いた。

「父さん、母さん。外、風が強いし……中で話そう」

ここは海辺の荘園だ。潮風は確かに冷たく、夜見裕矢は母が冷えるのを気遣って声をかけた。

雲田伊津美ははっとして、勢いよく頷く。

「そうね。私、興奮しすぎて忘れてた。さあ、早く入ろう」

そう言って、彼女は遠野千絢の手を引いたまま玄関へ向かう。

柔らかくて、でも確かな温もりのある手。

遠野千絢の胸の奥が、理由もなくじんわり温かくなる。

幼い頃から橋本佑香に疎まれ、母の愛情に触れる機会はほとんどなかった。

――母の温度って、こんなにもあたたかいんだ。

そうして一同は屋敷の中へ入った。

まず通されたのは玄関ホール。小さな空間のはずなのに、まるでギャラリーのようだった。壁には絵画が並び、足元や棚には陶芸品や彫刻がさりげなく飾られている。

遠野千絢は、ある陶芸作品の前で思わず足を止めた。

……これ、見覚えがある。

視線に気づいたのか、雲田伊津美がすぐに尋ねる。

「千絢、それ……気に入った?」

遠野千絢は一瞬言葉に詰まり、気まずそうに頷いた。

好きかと言われれば、作っている最中は確かに気に入っていた。だから形にした。

ただ、彼女が毎月作る作品は数が多い。まとめて助手に渡し、自分のアトリエで販売させている。これは、制作にかかった時間もたった3時間ほど。

それがまさか、実の両親の家にあるなんて――出来すぎている。

雲田伊津美は嬉しそうに言った。

「じゃあ、あとであなたの部屋に飾りましょう。これね、正体不明の新人陶芸作家の最高傑作だって評判なの。1か月前にチャリティーオークションで800万で落としたのよ。高くはないけど、発想が素敵でしょ」

遠野千絢の口元が、ぴくりと引きつった。

800万が……高くない?

遠野家が根井区の三大富商の一角とはいえ、こんな小さな作品にぽんと800万を出すのは尋常じゃない。

しかも、自分の気まぐれで作ったものに。

――この家、いったいどれだけ金があるの。

やがて一同は大客間へ通された。

広い室内の両脇には、十数人の使用人が整列している。片方は飲み物のトレーを持ち、茶だけでも数種類、コーヒーも味違いで揃えられていた。もう片方は菓子のトレー。香りだけで分かる、上等な焼き菓子の数々。

雲田伊津美は遠野千絢を連れてその間を歩きながら、柔らかい声で言う。

「初めて家に帰ってきたんだもの。何が好きか分からなくてね、とりあえず全部用意させたの。フルーツジュースも色々あるし、飲みたいものを飲んで。お菓子はT市で一番の店から取り寄せたのよ。味ごとに一つずつ、全部あなたの分」

期待に満ちた眼差しを向けられ、遠野千絢は断りきれず、手挽きのコーヒーを一つと、菓子を二つ選んだ。

「甘すぎるのは苦手で……抹茶がちょうどいいです」

雲田伊津美の顔がぱっと明るくなる。

「まあ……味の好みまで私と似てるのね」

家族って、こういうことなのだろうか。

雲田伊津美は内心で、今さらながら思う。夜見美羽が自分と好みがまるで違った理由を、どうしてもっと早く疑わなかったのかと。

選ばれた使用人が菓子を運び、ほかの者たちは静かに下がっていった。

そのとき夜見裕矢が言う。

「父さん、母さん。俺、着替えてくる」

夜見槙夫は、息子のだらしない身なりを見て、深くため息をついた。

「君はもうインターポール本部の特殊部隊A組のリーダーだろう。いったいどんな案件なら、隊長自らこんな格好になる? 知ってたら迎えに行かせなかった。千絢が怖がったらどうする」

夜見裕矢は叱られて、気まずそうに頭を掻く。

「今回は国際級の大物麻薬組織の摘発でさ。俺だけじゃなく、副署長まで現場で指揮を執ってた。……ただ、確かに道中で焦って、着替えるの忘れた」

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