第6章 金に困らない
誰が想像しただろう。インターポール直轄で密かに育成されている特殊部隊――その中で「死神」とまで呼ばれる男が、家ではここまで叱り飛ばされ、しかも謝って引き下がるしかないなんて。
「俺の落ち度だ。先に着替えてくる。千絢、待っててくれ」
そう言い残すと、夜見裕矢はそそくさと逃げるように姿を消した。
夜見槙夫はやれやれとため息をつき、遠野千絢に向かって苦笑する。
「うちの裕矢はああいうやつでね。任務明けで帰ってくるたび、身なりなんて気にしないんだ。怖がらなくていいよ」
遠野千絢はもちろん怖くない。むしろ、驚きのほうが大きかった。
まさか――
夜見裕矢が、インターポール特殊部隊のリーダーだなんて……。
遠野千絢は思わず、ごくりと唾を飲み込む。
この二年、彼女はインターポールのさまざまなシステムやネットワークへのハッキングに、何度も協力してきた。
それどころか、最近更新されたファイアウォールも、彼女が開発したものだ。
……助かった。窓口が裕矢兄さんじゃなくて。
もし相手が彼だったら、自分の素性なんて一発で剥がされていたかもしれない。
これから向こうとやり取りするときは……ボイスチェンジャー、使ったほうがいいな。
そんなことを考えながら、千絢はコーヒーカップを持ち上げ、口元へ運ぶ。
ひと口、すっと啜った瞬間――豆の香りが、妙に馴染んだ。
……まさかね。
両親の家で飲んでいたコーヒーは、全部、彼女がF国の私有荘園で育てている豆だ。
驚きつつ、もう一口。
間違いない……この味の豆は、荘園のものしか存在しない。
稼ぐために、わざわざ希少な品種を探し当て、あえて「高級感」を演出して富裕層向けに流通させた。しかも数量限定で。
それがまさか――実の両親が、顧客の一人だったなんて。
これまで自分は、親の金を親から受け取っていたのかもしれない。そう思うと、なんとも言えない気分になる。奇妙で、複雑で。
……よし。機会を見て、何か理由をつけて、両親には多めにおまけを送ろう。
「千絢、どうしたの? 何か考えごと? コーヒー、口に合わなかった?」
娘がカップを持ったまま黙り込んでいるのを見て、雲田伊津美は心配そうに覗き込んだ。
遠野千絢は慌てて首を振り、笑ってみせる。
「ううん。すごくおいしい。私、手挽きのコーヒー好きなの」
自分で選び、自分で培養までして改良した豆だ。まずくなるはずがない。
雲田伊津美はほっとしたように微笑む。
「そう。じゃあ、これからは母さんが手で挽いてあげる」
その優しい声に、千絢の胸の奥がじんわり温かくなる。断る気になれなくて、口調もつい甘くなった。
「うん……お母さんが挽いたの、絶対おいしい」
娘の笑顔に、雲田伊津美の心が一気に溶ける。――血の繋がりって、こういうことなのかもしれない。
そう思った途端、堪えきれずに千絢を抱きしめた。
「千絢……ごめんね……。自分の子が取り違えられるなんて、思いもしなかった。母さんが気づくのが遅すぎたせいで、あなたに苦労をさせて……」
声が、少し震える。
千絢は母の腕の中で、乱れていた心拍がすっと落ち着いていくのを感じた。
「お母さん、大丈夫……。私、そんなに苦労してないよ。育ての両親も、私にはそれなりによくしてくれたし」
遠野周生は悪くなかった。橋本佑香は距離があったけれど、それでも育ててはくれた。それだけで十分だ。
「本当に……?」
雲田伊津美はゆっくりと抱擁をほどき、目に悔しさを滲ませる。
「兄さんが調べてくれたの。前の家はお金がなくて、最近になってT市に引っ越してきた小さな家だって。普段、バッグも靴もあまり買ってなかったんでしょう?」
千絢は困ったように笑うしかない。
「うちと比べたら……遠野家は確かに小さかったけど。でも、食べるのにも着るのにも困ってなかったよ」
靴やバッグに興味がないのも本当だ。
それに、彼女は毎日、家計を回すために稼ぐことばかり考えていた。遠野奏斗の手術費と治療費をかき集めるのに必死で、おしゃれに時間を割く余裕なんてなかった。
けれど、その言葉は雲田伊津美の耳には「強がり」にしか聞こえなかった。
夜見美羽は、この家で服も靴もバッグも宝飾品も途切れたことがない。しかも大半が限定品、あるいは廃番の希少品だ。
それに比べて、千絢が今着ているのはTシャツにジーンズ、白いスニーカー。胸が痛くなるほど、質素に見えた。
「父さん母さんの前で、無理しなくていい」
夜見槙夫が、痛ましげに千絢を見つめる。
雲田伊津美も頷き、優しく、けれど強い口調で言った。
「私もあなたのお父さんも仕事はしてないけど、家はお金に困ってないの。これからは、怯えながら暮らさなくていい」
――これからは、夜見美羽にあるものは、実の娘にも必ず持たせる。
千絢は、まるで自分がどれほど苦労したかのような母の表情に、内心でため息をつく。
雲田伊津美の感覚で「お金に困ってない」なら、遠野家はきっと「飢え死に寸前」みたいに映っているのだろう。
雲田伊津美は千絢の返事も待たず、執事へ指示を飛ばした。
「原田さん、今すぐ商業街に連絡して。各店舗と、美羽が普段使ってるブランドの店にも。最新のアクセサリー、バッグ、服、靴を全部届けさせて。サイズは――お嬢様のサイズで揃えて」
原田は目が利いた。千絢を上から下まで一瞬で見て、寸法を把握する。
「かしこまりました。すぐ手配いたします」
千絢は慌てて口を挟む。
「お母さん、そんなにいらないよ……。服、数着あれば十分だから」
雲田伊津美は即座に首を振った。
「だめ。あなたは夜見家のお嬢様なの。こういうのは日用品よ。必要なものは揃えないと」
日用品……。
雲田伊津美の「日用品」は、一般人が思い浮かべるトイレットペーパーや洗剤とは、たぶん別の世界にある。
彼女の感覚では、日用品ひとつが平気で何百万、何千万――そういう話なのだろう。理解のズレを埋めるのは、簡単じゃない。
