第8章 まだ姉がいる

遠野千絢はそう呟くと立ち上がり、扉へ向かった。

ドアを開けると、カジュアルな服装に身を包んだ夜見裕矢が立っていた。

遠野千絢が何か言うより早く、夜見裕矢が先に口を開く。

「どうだ? 部屋、気に入ったか?」

「うん、満足」

遠野千絢はさらりと答えた。

目の前の夜見裕矢は、迎えに来たときとはまるで別人だった。あのときのくたびれた感じは消え、身なりも整っていて、動きもきびきびしている。清潔感が増したぶん、顔立ちの良さまで際立って見えた。

「気に入ったならよかった。戻ってきたばかりだし、買うものも多いだろ。欲しいものがあったら、遠慮せず言え」

甘やかすような視線で、夜見裕矢が念を押す。

「じゃあ、お言葉に甘えて。裕矢兄さん、よろしく」

「『よろしく』はいい。でも『迷惑』とか『申し訳ない』とか、そういうのは今後言うな」

夜見裕矢は真面目な顔で言った。

「……うん」

胸の奥が、じんわり温かくなる。

夜見裕矢は中へ入り、部屋をぐるりと見回した。

「ここ、家の中で一番日当たりがいい部屋なんだ。前は夜見美羽が『ここに移る』って言ってたんだけどさ。自分で全部コーディネートしたいとかで、結局ずっと空いてた。今回は君が戻ってくるってことで、親父と母さんがわざわざ有名なデザイナーに頼んだ。かなり気合い入れてたぞ」

その言葉で、両親がこの部屋に相当手をかけたのだとようやく腑に落ちた。もし自分が好意を突っぱねていたら、どれほど落胆させただろう。

……と、そこで遠野千絢は引っかかる。

「夜見美羽? 女の子の名前だよね」

自分には兄が五人いると聞いていた。なら、姉妹もいるのか。

夜見裕矢は眉を上げ、目を細めて遠野千絢を見た。

「さっき、親父と母さんから聞いてないのか?」

「……聞いてない」

裕矢兄さんの表情が少し重い。遠野千絢は余計に気になった。

夜見裕矢は、両親が喜びすぎて話しそびれたのだろうと察したらしい。先に知っておいたほうが、実際に顔を合わせたときの気まずさも減る。

そう判断したのか、夜見裕矢はゆっくりソファへ腰を下ろした。

「夜見美羽は……まあ、言うなら君の姉だ」

「私、姉がいるの?」

遠野千絢は思わず目を瞬かせた。

迎えられてから今まで、この家で女の子は自分だけだとばかり思っていたのに。

(遠野周生、調べが雑すぎない? 家族が一人増えてるのに……)

ただ、兄が五人もいると知ったとき、姉妹がいたら心強いのに、と一度は思った。まさか本当にいるとは――それはそれで、ちょっとした嬉しい誤算だった。

「……お姉さんって、どんな人?」

遠野千絢は軽い調子で尋ねた。

「性格、気になるってことだろ?」

夜見裕矢は遠野千絢の意図を読み取って、確認するように言う。

遠野千絢は小さく笑って頷いた。

「心配するな。美羽は優しい。ただ俺もあまり家にいないし、たまに戻っても会えないことが多いんだ。会えば分かる」

事実、兄弟の中でも夜見裕矢は夜見美羽と顔を合わせる機会が少なく、どこか距離がある。

「そっか……」

優しい人なら、きっとやっていける。遠野千絢はほっと息をついた。

そのとき、コンコン、と扉が叩かれた。

「どうぞ」

使用人が扉を開けて頭を下げる。

「裕矢様、千絢さん。旦那様と奥様が、お食事にお呼びです」

夜見裕矢は遠野千絢を見た。

「行こう。飯だ」

「うん」

二人で階下のダイニングへ向かう。

テーブルの上は料理で埋め尽くされ、もう置き場がないほどなのに、まだ次々と運ばれてくる。

主座には夜見槙夫と雲田伊津美が先に座って待っていた。

二人が近づくと、雲田伊津美が微笑みながら立ち上がり、遠野千絢の手を取って席へ導く。

「千絢、母さんの隣に座りましょう」

雲田伊津美は自分の隣へ座らせると、優しく言った。

「何が好きか分からなくてね。とりあえず色々作らせたの。おうちでは遠慮しないで、好きなものをどんどん食べて」

そう言いながら、雲田伊津美は遠野千絢の皿へ料理を取り分けていく。

その手つきと声の温度に、遠野千絢の胸に温かいものが流れ込んだ。遠野家でこんなふうに家族に世話を焼かれたことなど、一度もない。

突然向けられる優しさが、ただただ沁みる。

「ありがとう、お母さん。こんなに用意してくれて大変だったでしょ。私のことばっかりじゃなくて、お母さんも食べて」

遠野千絢はそう言って、今度は雲田伊津美の皿へ一品取り分けた。

そのやり取りを見て、夜見槙夫は満足そうに目を細める。

そして夜見裕矢へ声をかけた。

「夜見裕矢。いい酒を開けろ。今日は二人で飲もう」

夜見槙夫の顔は笑みでいっぱいだった。

「分かった」

最近ほとんど酒を口にしない父がわざわざ言うのだ。千絢が戻ってきたのが嬉しいのだろう。

雲田伊津美も、いっそう嬉しそうに笑った。

「千絢が戻ってきて、お父さんったら本当に上機嫌。私、こんなに嬉しそうなお父さん、久しぶりに見たわ。よっぽど嬉しいときだけ『酒を開ける』って言うのよ」

雲田伊津美は遠野千絢の手を握ったまま、穏やかに言う。

その最中、使用人が何人かの配達員を連れて入ってきた。

「旦那様、奥様。お嬢様にお手配したお洋服と靴、バッグが届きました。宝飾品も一部ございます」

「そう。じゃあ、お嬢様のお部屋へ運んで」

雲田伊津美は当然のことのように指示し、遠野千絢へ振り向く。

「食事が終わったら一つずつ見てちょうだい。気に入ったものだけ残して、合わないものは戻せばいいから」

「分かった。ありがとう、お父さん、お母さん」

遠野千絢は素直に礼を言った。

(返品できるなら助かる。適当に数点だけ残せばいい)

そう思ったのも束の間、使用人たちが次々に荷物を抱えて階段を上がっていく。量が多すぎて、運ぶだけでも時間がかかりそうだった。選ぶのも一苦労だろう。

同じ頃――夜見家の門の外に、黒いマイバッハが静かに停まった。

運転手が急いで降り、後部座席のドアを開ける。

艶やかな雰囲気をまとった女性が、ゆっくりと車を降りた。

夜見美羽は、屋敷の前に並ぶ数台の配送車を見て目を瞬かせる。使用人たちが衣類や靴、バッグを運び込み、さらに宝飾品らしき箱まで混じっていた。

見慣れたブランドの包装。しかも限定ラインのものばかり。

夜見美羽の口元に、嬉しさがふわりと浮かぶ。

「たった数日、海外の大会に行ってただけなのに……父さんと母さん、そんなに私の帰りを待ってたんだ。こんなにプレゼントまで用意して」

その隣で、夜見美羽の従妹も車を降りた。限定品の箱が積まれていくのを見て、胸の奥がどろりと嫉妬で濁る。それでも顔には愛想笑いを貼りつけ、甘い声で持ち上げた。

「伯母さん、本当に美羽姉さんのこと大事にしてるんですね。数日出ただけで、こんなに用意して……優勝して帰ってくるって分かってたんじゃないですか?」

「小さな大会だよ。こんなに気を遣わなくてもいいのに……」

夜見美羽はそう言いながらも、内心は弾んでいた。

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