第3章
意織はただただ苛立たしかった。
深の顔を見るだけで、彼と夏菜のあれこれが脳裏をよぎり、胸の奥がひどくざわつく。
助手席に座った彼女は、道中ずっと口を閉ざしていた。
やがて、深が口を開く。
「お前、何も言うことはないのか」
意織は唇をきつく引き結び、硬い声で返す。
「ないわ」
深の眉間が不快げに寄り、瞳の奥に苛立ちが渦巻いた。この女は一体どうしたというのだ。せっかくこちらから歩み寄ってやったというのに、意地を張って降りてこようとしない。少し頭を下げて謝るだけのことが、そんなに難しいのか。
車が一ノ瀬の本邸に到着するなり、意織はドアを開けて降りた。新鮮な空気を吸い込み、足早に屋敷へ向かう。背後で深が、ひどく険しい顔をして運転席から降りてきたことなど、まったく気づいていなかった。
そこへ、どこからともなく夏菜が現れ、真っすぐ深の胸に飛び込んだ。
「深、ずっと待ってたのよ。どうしてこんなに遅……」
甘えるような、それでいてすねたような言葉は途中で途切れた。意織の姿を視界に捉えた瞬間、夏菜の目がさっと赤くなる。
「白川さんもいたのね……今夜は、私とふたりでおばあさまのお祝いに来たんだと思ってたのに……」
意織は胸の内でうんざりし、名状しがたい怒りが込み上げてきた。だが、視界の端で夏菜の首元に光るピンクダイヤのネックレスを捉えた瞬間、その場に釘付けになった。
あれは……。
結婚したとき、深が彼女に贈ったネックレスだ。
世界にたった一つしかない品。
それが今、夏菜の首を飾っている。
ネックレスは彼女の白い肌によく映え、確かに似合っていた。
意織は視線を外し、目の前に並ぶお似合いのふたりを見た。心がとうに麻痺してしまったのか、それとも痛みが限界を超えたのか、その声は異様なほど落ち着いていた。
「これが目的? 夏菜を本邸に連れてきて、私に贈ったネックレスをつけさせて……あなたの気持ちを見せつけて、私に大人しく席を譲らせるつもり?」
淡々とした声とは裏腹に、全身から力が抜け落ちていくようだった。
「もともと邪魔するつもりなんてないわ。わざわざこんな芝居を打つ必要があった? 面白い?」
「私が直接、ふたりの末永い幸せを祈ってあげないと気が済まないの?」
言葉を重ねるほど、胃の奥がぐらぐらと波立ち、吐き気がせり上がってくる。
深は一言も発さず、冷ややかな顔で夏菜の首元のネックレスを見つめていた。その瞳は暗く沈み、何を考えているのか読み取れない。
夏菜が慌てた様子で口を開く。
「これ、あなたが人に届けさせたんじゃないの? 私、本当に白川さんの物だなんて知らなくて……」
本当か嘘か、誰に分かるというのだろう。
意織は唇の端をわずかに歪め、それ以上は何も言わなかった。ただ、夏菜と同じ空間にいるだけで息が詰まりそうで、一秒たりともここにはいたくなかった。
しばらくして、深がようやく口を開いた。
「ネックレスの件は、夏菜は知らなかった。外せ」
夏菜は首元に手を当て、指先でチェーンを握りしめ、名残惜しそうな顔をする。
「いいわ」
意織は声をかけて制した。慌てて手を引っ込める夏菜の姿が、ただただ滑稽に思える。
深はこんな女を宝物のように扱っているのだから。
意織はゆっくりと、一語一語噛みしめるように言った。
「誰かが身につけた物なんて、もう要らない」
彼女は歯を食いしばり、深を射抜くように見据え、含みを持たせて告げる。
「……気持ち、悪いの」
物もそうだが――目の前にいるこの男も、同じだ。
深の顔色が、一瞬にしてどす黒く沈んだ。
庭先での騒ぎが大きくなり、とうとうキヨが気づいて、ゆっくりと歩み出てきた。
白髪の老婦人は、意織の赤くなった目元を見て、次に険しい顔の深、そして傍らで怯えたふりをする夏菜へと視線を巡らせ、低い声で問う。
「……どうしたの」
意織は手を背に回し、そっと目尻の涙を拭うと、無理に笑みを作った。
「おばあさま、今夜は用事があるので、お祝いの席は失礼させていただきます」
これから先も――もう、同席することはない。
一ノ瀬家の中で、心から彼女を歓迎してくれたのは、この老婦人だけだった。
キヨが何か言いかけたが、意織はすでに踵を返していた。一度も振り返ることなく、その場を立ち去る。
背後で夏菜が小さく悲鳴を上げ、深が怒気を孕んだ声で何かを問い詰めるのが聞こえた気がしたが、意織は耳を貸さなかった。
聞いたところで、どうなるというのか。もう、気にするのはやめたのだ。
……
それから数日、意織の心は重く沈んだままだった。
夏菜がどれほど芸能記者やゴシップ紙を買収したのか、深が妻を替えるという記事が連日あふれ返り、意織の苛立ちを煽った。
両親から立て続けにかかってきた電話も、すべて切ってやった。
どうせ言いたいことは決まっている。離婚するな、大局を考えろ、と。
意織は弁護士に頼んで、もう一度離婚協議書を深へ送らせたが、向こうからは何の反応もなく、返事すらない。深の秘書である風太に催促しても、返ってくるのは「社長は多忙で、お時間が取れません」という言葉ばかりだった。
風太はもともと老婦人が支援していた苦学生で、卒業後はそのまま深に仕えており、普段から意織にも礼儀正しかった。ただ、この言い訳が深の意思なのか、それとも老婦人の意向なのかは分からない。
まあいい。意織も深く追及する気にはなれなかった。
弁護士からは、訴訟離婚という手段もあると助言された。意織は少し考えた末、深の不貞に関するあらゆる証拠を集め始めるよう依頼した。
最終的に役に立つかどうかは分からないが、備えておくに越したことはない。
この結婚は、絶対に終わらせる。
証拠の整理には時間がかかる。意織は急かさず、できるだけ万全を期すようにとだけ伝えた。
一方で、彼女の新しい仕事も次第に忙しくなっていった。
意織が入社した化粧品会社は規模こそ小さいものの、内部は派閥とコネが渦巻いていた。入ったばかりで後ろ盾もない彼女は、当然のように排斥される側に回る。
残業でも構わなかった。
少なくとも、深や夏菜の忌まわしい出来事を考える暇を与えずに済むから。
だが皮肉なことに、会いたくない人間ほど、目の前に現れて存在を誇示してくるのだ。
週明けの出勤日。意織が会社に着くなり、総部長から、ある巨大グループ傘下の高級ブランドと提携することになり、先方がスタジオの新進気鋭のジュエリーデザイナーを推薦してきたと聞かされた。
新進気鋭と言っても、後ろ盾のある新人が名前だけで実績を稼ぎに来るのだろう。
そしてそのデザイナーこそが、夏菜だった。
彼女が提携先の肩書をぶら下げて目の前に現れた瞬間、意織の気分は一気に底へ落ちた。
さらに腹立たしいことに、夏菜は会議の席でわざわざ意織を名指しし、今回の提携の窓口担当に指名してきたのだ。
意織はもともと泣き寝入りするような性格ではない。その場ではっきりと拒絶した。すると夏菜は、またしてもあのか弱い被害者のような顔を作り、意織の胃を激しくむかつかせた。
「白川さんは……私に何か思うところがあるんですか? 私たちの間には、少し私的なわだかまりが……」
その言葉が落ちるや否や、オフィスにいる同僚たちの好奇の視線が一斉に集まった。
夏菜のすぐそばには、深の秘書である風太が座っている。間違いなく、深が愛人の後ろ盾として送り込んできたのだろう。
意織はまぶたすら上げず、氷のように冷たい声で返した。
「私怨があるって分かっているのに、あえて私を担当にするなんて、どういうつもり?」
夏菜は言葉に詰まり、しどろもどろになる。
「わ、私……」
意織は容赦なく遮った。
「ちゃんと仕事する気はあるの? ないなら担当を替えて。これ以上あなたと一言でも言葉を交わしたら、また平手打ちしたくなるから」
「不倫相手なら大人しくしていなさい。私の前で威張り散らすって何様のつもり? 深が守ってくれるから、私が手を出さないとでも思ってるの?」
