第4章
その二言が落ちるや否や、会議室は水を打ったように静まり返った。
夏菜の顔色は青ざめたり赤くなったりと、見るに堪えないものだった。
意織が公衆の面前で遠慮なく牙を剥き、二人の因縁を明るみに出すとは、夢にも思わなかったのだろう。
だが、深すら恐れない意織が、彼女を恐れるはずもない。
最悪、仕事を辞めればいいだけのことだ。
意織は視線を風太に向け、冷ややかな声で告げた。
「私の態度はこうです。程原秘書、何かご意見でも?」
風太は言葉に詰まり、結局は頭を下げた。
「……いえ、ありません」
意織が入社して以来、初めて見せた鋭い一面だった。普段彼女をこき使っている上司でさえ、見る目を変えていた。
しかし意織は気にも留めず、完全に無視した。
会議が終わり、提携の窓口業務は結局、別の同僚に引き継がれた。
風太は会議が終わるなり足早に立ち去り、夏菜は気まずそうにその場に残り、会社のチームと一緒にデザインの方向性を話し合っていた。
退勤時、夏菜はわざわざ一階のロビーで意織を呼び止め、先ほどの件を謝罪するふりをした。
意織が道を塞ぐその腕を払いのけた瞬間、夏菜は勢いに任せて床に倒れ込んだ。
意織が振り返ると、少し離れた場所に深の姿があった。夏菜の魂胆は一瞬で理解できた。
こんな見え透いた三文芝居が、よりによって毎回功を奏するのだ。
深が彼女を信じようとしている、ただそれだけの理由で。
深は眉をひそめ、冷ややかな視線で意織を射抜くと、咎めるような口調で言った。
「どうしても夏菜を困らせたいのか? たかがネックレス一本のことで、いつまで騒ぐつもりだ」
やはり。
彼は事の顛末を問い質すこともなく、真っ先に彼女を責め立てる。まるで意織こそが理不尽な悪人であるかのように。
意織は唇の端を吊り上げ、皮肉たっぷりに笑った。
「何? お姫様を助けるナイト気取り? 愛しい彼女の代わりに私を説教しに来たわけ?」
深は昔から聡明なはずなのに、どうして分からないのだろう。彼女が怒っているのは、決してネックレス一本のことなどではないと。
無理もない。常に高みに立ち、周囲からちやほやされてきた彼が、彼女の胸の奥にある悔しさや悲しみなど気にかけるはずがない。
彼にとって、自分は政略結婚の駒に過ぎないのだから。
どれだけ尽くしても、彼の心を温めることはできない。
そう思うと鼻の奥がツンと痛み、思わず目頭が熱くなった。
意織は心の中で苦笑した。もう諦めると決めたはずなのに、深のあんなにも冷酷な言葉を聞くと、やはり胸が痛む。
これ以上、彼と一言も言葉を交わす気にはなれなかった。
馬の耳に念仏だ。何の意味もない。
彼女は踵を返し、迷いのない足取りで歩き出した。一瞥すら与えずに。
深が眉を寄せ、その後を追おうとした矢先、夏菜がか弱げな仕草で彼の袖を引いた。
「深……足、捻っちゃったみたい。痛い……」
意織は背後の茶番など気にも留めず、まっすぐ会社のエントランスを抜けた。
夜風が頬を撫でる。その冷たさが、心に渦巻いていた苛立ちを少しだけ吹き飛ばしてくれた。
道端に静かに停まっていた白いSUVが、ヘッドライトを二回点滅させた。
ドアが開き、淡い色のカジュアルな服に身を包んだ男が降りてくる。手にはクラフト紙の紙袋を提げており、意織の姿を認めると、その顔に穏やかな笑みを浮かべた。
「お疲れ様」
悠だった。
「うん。どうしてここに?」
「またご飯を食べるのを忘れてるんじゃないかと思って。君の好きなあのお店のケーキ、買ってきたよ」
悠の視線が、彼女の赤くなった目元に落ちる。笑みが少し薄れ、声に心配の色が混じった。
「また誰かと喧嘩したの?」
「ううん」
意織は紙袋を受け取り、うつむいて彼の視線を避けた。
「仕事のことで、少しイライラしてただけ」
気が滅入るような話を、友人に聞かせたくなかった。
煩わしさを増やすだけだ。
悠はそれ以上追及することなく、ただ手を伸ばし、風で乱れた彼女の髪を耳にかけようとした。
彼の指先は温かく、清潔な石鹸の香りがした。
だが、その指先が彼女の髪に触れるより早く、横から伸びてきた大きな手が、乱暴に悠の手首を掴んだ。
その力の強さに、悠は思わず眉をひそめる。
「誰が触っていいと言った?」
深の声は、冬の夜風よりも冷え切っていた。
いつの間に追ってきたのか、彼の背後には、いかにも可哀想な被害者を装った夏菜が立っている。
夏菜は悠を見るなり目を輝かせ、すぐに深の耳元へ顔を寄せると、わざと聞こえるような声で囁いた。
「深、見て……言った通りでしょ。白川さん、とっくに次の相手を見つけてたのよ。じゃないと、あんなに急いで離婚したがるわけないもの。三年の夫婦の絆も、ポッと出の男には敵わないのね……」
彼女の言葉は、深の心の中で最も苛立っている部分を的確に突き刺した。
これが、彼女が恐れ気もなく離婚を切り出せた理由だというのか?
「意織、大した度胸だな。そんなに急いで次の男に乗り換えたかったのか?」
吐き捨てられた言葉は、極めて耳障りで下劣だった。
意織は怒りで全身を震わせた。悠は数少ない友人であり、この息の詰まるような結婚生活の中で、唯一息継ぎができる場所なのだ。
深が彼をこのように侮辱することなど、到底許せなかった。
「深、頭でもおかしくなったの!」
意織は一歩前に出て、彼の手を力任せに引き剥がそうとした。
「彼を離して!」
悠は彼女よりも冷静だった。空いている方の手で意織の手の甲を宥めるように叩くと、深へ視線を向け、淡々と、しかし力強い声で言った。
「一ノ瀬さん、誤解されているようですが。私と意織は大学の同級生で、昔からの付き合いです。今日はただの友人として、仕事終わりの彼女を食事に誘いに来ただけですよ」
「友人?」
深は冷笑し、その目には溢れんばかりの嘲りが浮かんでいる。
「随分と親密な『友人』だな?」
先ほど悠が意織の髪を直そうとした動作を指しているのだ。
白黒を逆転させるような彼のその態度に、意織の怒りは頂点に達した。
彼女は深を思いきり突き飛ばし、悠を背後に庇うようにして、彼の視線を真っ向から睨みつけた。
「そうよ、ただの友達。それより一ノ瀬さん、私たちは今、離婚の話し合いをしている最中でしょう。あなたが私の友人を問い詰める権利なんてあるの? 一体何の立場で私に干渉しようっていうの?」
「あなたが今すべきなのは、隣にいる新谷さんの面倒を見ることじゃないの!」
「お前……!」
深は、自分が返す言葉を失っていることに気づいた。
そうだ。彼女が離婚を望み、彼自身がそれを承諾したのだ。
今のこの、罪を問い詰めるような態度は一体何だというのか。
言葉に詰まる彼の姿を見ても、意織の心に微塵の快感も湧かなかった。あるのは、底知れぬ疲労感だけ。
彼女は悠の手首を引き、深の拘束から彼を解放した。
「行こう。頭のおかしい相手は放っておいて」
そう言い捨て、彼女は悠を連れて車に乗り込もうと背を向けた。
「意織!」
背後から深の声が飛んでくる。
意織の足がピタリと止まった。
ちょうどその時、深のスマートフォンが鳴った。
着信画面に目をやると、実家からの電話だった。
電話に出た深は、向こうの言葉を聞いて顔色を変えた。
夏菜もここぞとばかりに口を開き、泣きそうな声で訴える。
「深、本当に足が痛いの。お願い、先に病院へ連れて行って……」
深は最後に、意織の決別を告げるような背中と、その傍らに立つ男を深く見つめた。
そして、荒々しく身を翻し、自身の車へと乗り込んだ。
