第5章
遠ざかる車を見送り、悠は隣で蒼白になっている意織に視線を移して、そっと尋ねた。
「大丈夫か?」
意織は首を横に振り、無理に笑みを作った。
「平気よ」
車のドアを開けて乗り込み、ドアを閉めた瞬間、背後のすべてが遮断された。
車は滑らかに走り出し、夜の車の波へと紛れ込んでいく。
「あいつと真っ向からぶつかる必要なんてないんだ」悠は車のスピードを落としながら言った。「北峰市における一ノ瀬家の力なら、離婚の噂一つ握り潰すことなんて造作もない。このまま意地を張っても、君が損をするだけだ」
窓の外を飛ぶように流れていくネオンを見つめ、意織は低く沈んだ声でこぼす。
「分かってる。でも、もう我慢したくないの。たとえ最後は共倒れになったとしても」
悠はしばらく沈黙し、それ以上は何も言わなかった。
意織の性格はよく知っている。一見大人しそうに見えて、芯は誰よりも頑固なのだ。
車が意織の仮住まいである小さなアパートの前に停まる。悠は部屋まで送ろうとしたが、意織はそれを断った。
「早く帰って休んでね」
ドアを閉め、意織は一度も振り返ることなくエントランスへと姿を消した。
翌朝。オフィスに足を踏み入れた途端、意織は空気の異変に気づいた。
いつもなら集まって噂話に花を咲かせている女性社員たちが、今は自分のデスクに縮こまり、ちらちらとこちらへ視線を送ってきている。
総部長室のドアが開いており、見慣れない人物が立っていた。
「意織くん、ちょっと来てくれ」総部長が手招きする。
意織が近づくと、総部長は隣に立つ洗練されたスーツ姿の女性を指して紹介した。
「こちらは小林デザイナーだ。今日から、以前新谷さんが担当していたプロジェクトを引き継いでもらう。新谷さんは昨夜、不注意で足を怪我してね。現在入院して経過観察中だ」
意織は一瞬呆然とし、すぐに合点がいった。
足を怪我した?
昨夜、深の腕の中でか弱いふりをしていた夏菜の姿が脳裏をよぎる。ずいぶんと手の込んだお芝居だこと。
小林デザイナーはプロ意識が高く、口数も少なかった。資料の引き継ぎを簡潔に済ませると、すぐに仮のデスクへと戻っていった。
夏菜の嫌がらせがなくなったおかげで、意織の仕事の効率は格段に上がった。
昼休み。意織が給湯室でコーヒーを淹れていると、壁掛けテレビから経済ニュースが流れてきた。
画面が切り替わり、深の冷ややかな顔がスクリーンに映し出される。
業界のサミットに出席した後の、短い囲み取材のようだった。
記者は最近世間を騒がせている名門の離婚騒動を見逃すつもりはないらしく、大胆にもこう切り込んだ。
「一ノ瀬社長、奥様との関係に亀裂が入り、すでに離婚の段階にまで至っているという噂がありますが、これは事実でしょうか?」
画面の中の深は顔色一つ変えず、まばたきすらしない。
マイクに向かい、淡々とした口調で答える。
「噂は信じるに値しません。妻との関係は良好であり、現在のところ離婚の予定もありません。皆様には私の私生活ではなく、一ノ瀬グループの事業に注目していただきたいですね」
コーヒーカップを持つ意織の手が、宙でぴたりと止まった。
関係は良好?
離婚の予定はない?
画面の中で涼しい顔をしている男を見て、怒りを通り越して笑いが込み上げてきた。
息を吐くように嘘をつく。その手腕は、まさに堂に入ったものだ。
入院中の愛人を庇いながら、メディアの前では夫婦円満をアピールする。一ノ瀬グループの株価を安定させるため、ただそれだけのこと。
彼にとって、結婚も、妻も、愛人も、すべては数値化できる資産であり、単なる広報の道具に過ぎないのだろう。
意織は顔を上げ、苦いブラックコーヒーを一口飲んだ。冷ややかな感覚が、喉から胃の奥へと落ちていく。
夜、退勤してビルのエントランスを出たところで、スマホが鳴った。
キヨからだった。
「意織、まだ帰ってこないのかい?」老婦人の声には疲労が滲み、少し咳き込んでいた。「この二日ほど、どうも胸のあたりが苦しくてね。お医者様には安静にするように言われているんだ。お前の顔が見たい。深と一緒に帰ってきて、ご飯でも食べないか?」
意織はスマホを握りしめた。断りの言葉が喉まで出かかったが、どうしても口に出せない。
一ノ瀬家での三年間、彼女を心から守ってくれたのは、お祖母様だけだった。
「お祖母様、お体第一になさってください。今から向かいますから」
「そうかい、そうかい。深がお前を迎えに行っているから、もうすぐ着くはずだよ」
電話を切り、意織が顔を上げる。
見慣れた黒のベントレーが、道路の向かい側に停まっていた。
深は車のドアに寄りかかり、指の間に火のついていない煙草を挟んでいる。
こちらの視線に気づくと、彼は煙草を無造作に近くのゴミ箱へ投げ捨て、大股で歩み寄ってきた。
「乗れ」無駄な言葉は一切なく、相変わらず氷のように冷たい声。
意織は動かない。
「自分でタクシーで行くわ」
「祖母が待っている」深は足を止め、振り返って彼女を睨みつけた。その目には明確な警告が宿っている。「あの人の心臓は、もう負担に耐えられない。あそこで離婚の話を持ち出すつもりなら、よく考えることだ」
意織は深く息を吸い込み、結局は助手席に乗り込んだ。
車内は静まり返り、エアコンの吹き出し口から微かな風の音が聞こえるだけだ。
「ニュース、見たわ」意織が先に沈黙を破った。声には皮肉がたっぷりこもっている。「一ノ瀬社長の演技力、主演男優賞をもらえないのが惜しいくらいね」
深はハンドルを握る手に力を込め、無表情のまま答えた。
「会社の利益のためだ。このタイミングで離婚騒動が公になれば、白川家と一ノ瀬家の共同プロジェクトにも影響が出る」
「だから、私にそのおしどり夫婦の芝居に付き合えって?」
「お前はただ黙っていればいい」深は冷たく言い放った。
車が本邸の並木道に入ると、深はふいに速度を落とした。
「中に入ったら、祖母の前で仏頂面はするな」彼は顔を向け、意織の少し蒼白な顔に視線を落とす。「最近、本当に体調が良くないんだ。離婚の件は、あの人の状態が安定してからにする。その間、お前は外に住み続けて構わない。干渉はしない」
意織は冷笑した。
「そこまで冷血じゃないわ。お祖母様が私に良くしてくれたことは分かってる。離婚のことは一時的に黙っておく。でも、考えを変えたわけじゃないから」
深は何も答えず、瞳の奥を暗く沈ませて、再び車を走らせた。
本邸の玄関では、執事がすでに待機していた。
意織は車を降りる前、わざとらしく服の乱れを直し、穏やかな笑みを浮かべた。
深が彼女の横に並び、ドアをくぐる瞬間、彼の手がごく自然に意織の腰に添えられた。
意織は体を強張らせ、無意識に避けようとしたが、耳元で低い声が囁かれた。
「祖母が見てる」
掃き出し窓の前で、キヨは車椅子に座り、この「お似合いの夫婦」を目を細めて見つめていた。
意織は、その手が自分の腰を軽く抱き寄せるままに任せるしかなかった。
「意織、よく来たね」老婦人は意織の手を引き寄せ、じっくりと顔を覗き込んだ。「痩せたね。深のやつが、お前をいじめたんじゃないのかい?」
意織が口を開くより早く、深が先回りして答える。
「そんなわけないだろ。こいつは最近、会社のプロジェクトにかかりきりで、寝食を忘れてるだけだ」
「仕事が忙しくても、体は大事にしなきゃ駄目だよ」老婦人は意織の手の甲をぽんぽんと叩き、心底痛ましそうな目を向けた。「今夜はここに泊まっていきなさい。帰るんじゃないよ。お前たちの部屋は、もう片付けさせてあるからね」
意織の心が、ずしりと沈んだ。
泊まる?
それはつまり、彼女が深と同じ部屋で過ごさなければならないということだ。
