第6章

彼女は助けを求めるように深へ視線を送り、彼が何か理由をつけて断ってくれることを期待した。

だが深は、淡々と頷いただけだった。

「ええ、おばあさまの言う通りにします」

夕食の席で、老夫人は上機嫌だった。絶え間なく意織の皿へ料理を取り分けてくれる。

「ふたりも結婚して三年になるし、そろそろ子どもを考えてもいい頃合いじゃないの」

老夫人が唐突に切り出した。

「子どもがいれば、家の中ももっと賑やかになるわ」

意織は危うくスープでむせそうになり、乾いた笑いを漏らす。

「おばあさま、私たちはまだ若いですし……今は仕事を優先したいんです」

「仕事なんて、いくらやってもキリがないわ」

老夫人は小さく息を吐いた。

「私のこの身体も、あとどれくらい保つか分からない。目を閉じる前に、ひ孫を抱いてみたいのよ」

場の空気が、一瞬にして重く沈んだ。

意織は老夫人の白い髪と、くぼんだ目元を見つめる。胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

深は傍らでゆっくりとステーキを切り分けながら、顔も上げずに相槌を打つ。

「努力します」

意織はテーブルの下で、思いきり彼のすねを蹴りつけた。

――よくもまあ、適当に話を合わせられるものだ。

だが深は眉ひとつ動かさない。それどころか意織のほうへ顔を向け、老夫人の目の前で、親しげに彼女の耳元の後れ毛を梳いてみせた。

「もっと食べろ。痩せすぎだ」

そのあまりに優しい声音に、意織は全身に鳥肌が立つ思いだった。

この夕食は、意織にとってまさに針のむしろだった。

ようやく老夫人との談笑を終え、二階の寝室へ戻る。

ドアが閉まった瞬間、意織の顔から笑みが完全に消え去った。

「深、さっき下で何をでたらめ言ってたの?」

声を潜めて問い詰める。

深はジャケットを脱ぎ捨て、無造作にネクタイを引き抜いた。その一連の動作には、どこか荒々しい気配が漂っている。

「じゃあどうしろと? あの場で離婚すると告げて、おばあさまが救急車で運ばれるのを眺めていればよかったのか?」

鋭い視線を射られ、意織は言葉に詰まった。

「……今夜、あなたはソファで寝て。私がベッドを使うから」

窓際の革張りソファを指差す。

深はまるで冗談でも聞いたかのように鼻で笑い、振り返ってじりじりと距離を詰めてきた。

「意織、勘違いするな。ここは俺の部屋だ」

「だったら、私が客室に行くわ」

「ドアの外には執事がいる。今ここを出れば、五分と経たずにおばあさまの耳に入るぞ」

深は彼女の目の前に立ち塞がり、その長身で大きな影を落とした。

「今夜、おばあさまを寝不足にさせたいなら、好きにしろ」

意織は怒りで言葉も出ず、枕を抱きしめたままベッドの端に座り込んだ。

バスルームからシャワーの音が聞こえてくる。それがさらに意織の心をざわつかせた。

しばらくして、深が腰にバスタオルを巻いただけで出てきた。濡れた髪から滴る水滴が、引き締まった胸板を伝い、腹筋の陰影へと消えていく。

意織は慌てて視線を逸らした。耳の裏が熱い。

「服くらい、ちゃんと着られないの?」

「俺はこの格好で寝る主義だ」

深は掛け布団の端をめくって横たわり、ついでに部屋のメインライトを消した。

室内は深い闇に包まれ、窓から差し込む月明かりだけが、床に銀色のベールを落としている。

意織はベッドの反対側に横たわり、できるだけ端へ寄った。ふたりの間には、広くて深い溝がある。

「意織」

暗闇の中、深の少し掠れた声が響いた。

「何?」

「本当に覚悟はできているのか? 一ノ瀬家を離れれば、白川家の両親がお前をただで済ませるはずがない」

「それは私の問題よ。一ノ瀬社長に心配していただく筋合いはないわ」

意織は寝返りを打ち、彼に背を向けた。

「あなたから離れられるなら、どんな結果だって受け入れる」

背後で、冷たい鼻息が聞こえた。

それから長い時間が過ぎた。意織がまどろみの中に沈みかけたそのとき、突然、腰に重い腕が回された。

深の匂いが、一瞬にして彼女を包み込む。

「離して!」

意織は跳ね起きるように目を覚まし、彼を突き飛ばそうともがいた。

「動くな」

深の声には、濃い疲労が滲んでいた。

「ただ眠りたいだけだ。さっきおばあさまがドアの前を通った。気付かれたくないなら、大人しくしてろ」

意織の身体が強張る。

これが彼の口実なのか、それとも事実なのか、判断がつかない。

だが、この久しく忘れていた温もりは、彼女の鼻の奥をツンとさせた。

かつて、こうして彼の腕の中で眠りにつくことを、彼女は何度夢見ただろう。けれど今となっては、この親密さがただ皮肉にしか思えない。

「深、こんなことして……楽しいの?」

意織は小さく呟いた。

返事はない。

背後からは、規則的で深い寝息が聞こえてくる。彼は本当に眠ってしまったようだ。

意織は目を見開いたまま窓の外の月を見つめ、空が白み始める頃にようやく深い眠りに落ちた。

翌朝、意織はスマホの着信音で目を覚ました。

弁護士からだった。

「白川さん、一ノ瀬さんの不貞に関する証拠ですが、あらかた揃いました。特に新谷さんが入院していた期間、一ノ瀬さんが頻繁に病院へ出入りしていた写真や動画が……」

意織ははっと意識を覚醒させ、無意識に隣を見た。

すでにそこは空っぽで、布団に微かな温もりが残っているだけだった。

「ええ、分かりました。その証拠はひとまず保管しておいてください。いつでも提訴できるように」

通話を切り、意織はベッドを降りる。

身支度を整えて一階へ降りると、ちょうど外から戻ってきた深と鉢合わせた。彼の手には、老夫人の好物である朝食の包みが提げられている。

視線が交差する。昨夜のあの気まずい艶めかしさはすっかり消え失せ、代わりにお互い暗黙の冷たさだけが漂っていた。

「おばあさまはもう起きてる。入れ」

すれ違いざま、深が低い声で言った。

意織がリビングへ入ると、老夫人がソファに座って新聞を読んでいた。

「意織、起きたの? 昨夜はよく眠れた?」

老夫人が目を細めて笑いかける。

「ええ、とてもよく眠れましたよ、おばあさま」

意織は歩み寄り、大人しく隣に座った。

「それならよかった、よかった」

老夫人は新聞を置き、不意に声を潜めて意織の手を握った。

「聞いたわよ。夏菜のあの子、入院したんですって?」

意織の肩がびくっと震えた。

「はい、昨夜うっかり転んでしまったそうで」

老夫人は鼻で笑う。

「あの子の浅知恵なんて、深は騙せても、私の目はごまかせないわ。意織、安心しなさい。私が生きている限り、一ノ瀬家の敷居は絶対に跨がせないから」

老夫人の力強い眼差しを見つめ、意織は口を開きかけたが、結局「もう気にしていない」という言葉は飲み込んだ。

朝食後、深が意織を会社まで送ることになった。

オフィスビルの下で車が停まる。意織が降りようとしたとき、深が唐突に口を開いた。

「夏菜の件は、俺がきちんと処理する。離婚の件についても、この時期が過ぎたら、お前にけじめをつける」

ドアのハンドルに掛けた意織の手が止まる。だが、振り返りはしなかった。

「あなたのけじめなんて、少しも欲しくない。私が欲しいのは、サイン済みの協議書だけよ」

言い捨てると、彼女は勢いよくドアを閉め、一度も振り返ることなくビルの中へ消えていった。

深は車内に座ったまま、その決然とした背中を複雑な瞳で見送る。

ダッシュボードに置かれた彼のスマホが、短く震えた。

夏菜からのメッセージだ。

『深、お医者様に靭帯を痛めてるって言われたの。治るまで時間がかかるみたい。今夜、会いに来てくれない? 病院にひとりきりで、すごく怖くて……』

深は数秒間画面を見つめ、無造作にスマホを伏せた。

「会社へ」

前の席の運転手に、冷たい声で命じる。

その日一日、意織はどこか上の空だった。

小林デザイナーが連れてきたチームは非常に優秀で、彼女が担当する作業はあっという間に片付いた。

午後三時。受付から、意織に面会を求める客がいると内線が入った。

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