第3章
白原英樹は言葉を失い、困惑に満ちた目で私を見た。
「……何を言ってる?」
「藤原聡に嫁ぎます」
私は淡々と答えた。
藤原聡――東京はもちろん、関東の界隈でその名を知らぬ者はいない藤原家の組長。
手段は苛烈、気まぐれで底が知れない。女に興味がないとも囁かれていた。
誘惑した女を地下室に閉じ込め、三日三晩食事も与えず放置した。救い出されたときには、息も絶え絶えだった――そんな噂まである。
それ以来、この国の名家の令嬢で藤原聡に嫁ぎたいという者はいない。名前を耳にしただけで距離を取る。皆、そういう男だと理解しているからだ。
私が政略結婚を拒んだあと、白原英樹は林原雨子の娘を藤原家に押し込もうとした。
上流社会での地位を固めるために。
けれど林原雨子が頑として首を縦に振らず、話はうやむやになって終わった――はずだった。
白原英樹は私を値踏みするように眺める。
「だが、お前は陸原紀川と結婚したんじゃないのか?」
「入籍していません。私は今も独身です」
平然と返す。
白原英樹の顔に、信じがたいという色が走った。
「ただし条件があります」
私は続けた。
「祖母が母に遺した祖宅――北海道の旧庄園と、それに付随する地契の書類一式を、私に渡して」
あのとき私は父の商業的な縁談を拒み、家を追われた。受け取れたのは母の遺した財産の、ほんの一部。
けれどあの庄園だけは、母がいちばん愛した場所だ。私に残された、たった一つの拠り所。
だから――絶対に譲れない。
「本気か?」
白原英樹が目を細める。
「だめよ!」
私が返事をするより早く、林原雨子が甲高い声を上げた。
「古くても土地の価値が高いのよ! それに白原家の財産なんだから、嫁に出た女に渡す資格なんてない!」
私は冷たく見返す。
「それは母の持参金です。法的にも母の単独相続。父には居住権があるだけ。母が亡くなったあとの第一順位相続人は私」
白原英樹の顔色が沈む。価値も帰属も分かっているはずだ。
それでも私に渡さなかったのは――私利に他ならない。
「……何に使う」
低い声。
「私の勝手です」
「でも――」
林原雨子が食い下がろうとした瞬間、私は遮った。
「あなた、娘を嫁がせたいんですか?」
「嫌! 嫌よ!」
二階の踊り場から悲鳴が落ちてくる。
白いワンピースの白原秋穂が駆け下り、林原雨子に縋りついた。
「ママ! 私、あんなヤクザに嫁ぎたくない! 人を殺すって! 嫌!」
林原雨子は娘を抱きしめ、必死に宥める。
「大丈夫。ママがあんな人のところに嫁がせたりしない」
――私に押しつけようとしたときは、随分と簡単に言ってくれたくせに。
白原英樹は泣きじゃくる白原秋穂と、無表情の私を見比べ、眉間に深い皺を寄せた。
長い沈黙の末、ようやく口を開く。
「……いい。条件を飲む」
そして、釘を刺すように言った。
「ただし藤原聡に嫁ぐなら、何をしていいか、何をしてはいけないか――分かっているな」
「ご心配なく」
私は淡々と頷く。
「役目は果たします」
まだ何か言いたげな林原雨子は、白原英樹の鋭い視線で黙り込んだ。
白原英樹が手を振る。
「遅い。使用人に部屋を――」
「いえ、自分で」
私は荷物を持ち、階段へ向かった。
翌朝。私は藤原家のクラブへ足を運んだ。
入口には黒いスーツの屈強な警備が二人。
名乗り、用件を告げると、片方がイヤホンで低く確認する。数秒後、男は身体をずらして通してきた。
中へ入った瞬間、廊下の角から見慣れた影が現れる。
陸原紀川だった。スーツの男と社交辞令を交わしている。
私を見るなり、はっきりと固まった。次いで足早に寄ってきて、声を落とす。
「白原花? なんでここにいる。……まさか、俺に会いに来たのか?」
「陸原紀川さん、自意識過剰ね」
私は冷笑を返す。
「私たち、もう終わった。私がどこへ行こうと、あなたに関係ないでしょ」
「終わった?」
陸原紀川は眉を寄せ、露骨に不機嫌な顔になる。
「家に帰って数日頭を冷やせって言っただけだ。いつ別れるなんて言った?」
深く息を吸い、声の調子だけを柔らかくした。
「昨日のことは……お前に嫌な思いをさせた。だが、お前にも悪いところはある。こうしよう。帰って陸原園子に謝ればそれで終わり。元通りだ」
元通り。
笑いが込み上げた。私がまだ、彼の嘘の巣に戻るとでも思っているのか。
「陸原紀川。あなた、冷たいだけかと思ってたけど――頭まで空っぽだったのね」
言葉を容赦なく突きつける。
「もう一度言う。私たちは終わり」
陸原紀川の顔が沈み、目つきが陰る。
「終わり? お前が言えば終わりか?」
一歩詰め、私の手首を掴もうとする。
穏やかな仮面が剥がれ、傲慢と苛立ちがむき出しになる。
「いい加減にしろ。調子に乗るな!」
声が荒くなる。
「俺と陸原家を離れて、お前に何ができる!」
手首がきしむほど痛い。私は必死に振りほどこうとする。
「離して! 私が何をしようと、あなたに関係ない!」
だが陸原紀川は力を緩めない。むしろ強く、逃がさないように。
「まだ自分が白原家の令嬢だと思ってるのか? 教えてやるよ。上流社会じゃお前の評判はとっくに終わってる。顔と母親の金しかないくせに、何が残る?」
言葉が刃になって、心と尊厳を刻む。
彼らにとって私は、金づるで、厄介で、早く捨てたい存在。
手首の骨が砕けそうになった、そのとき。
会客室の入口から、醇厚で低い声が落ちてきた。
「陸原紀川さん。私の婚約者にその扱いは、少々よろしくないのでは?」
