第5章
「白原さん」
彼は私を見つめ、面白い獲物でも見つけたように目を細めた。
「君は父の話より、ずっと興味深い」
会客室のデスクへ戻ると、精巧な木箱から葉巻を一本抜き取る。火は点けない。ただ指先で転がし、遊ぶだけ。
「契約は結ぶ」
返事は拍子抜けするほど即答だった。
「明日、弁護士から連絡させる。君が君のものを取り返すまで――こちらも『芝居』に付き合おう」
胸の奥がふっと緩む。けれど、警戒まで解けたわけじゃない。
「ただし」
声の温度が落ち、視線が私を正確に射抜いた。
「私は損をする取引はしない。この縁談で欲しいのは、妻という肩書きだけじゃない」
心臓が、もう一段跳ね上がる。
「……どういう意味ですか」
藤原聡は葉巻を唇に添え、デスク越しに身を乗り出した。燃えるみたいな視線が外れない。薄い唇が開き、言葉が一つずつ落ちてくる。
「君が欲しい。白原花。名実ともに、私の妻として」
耳元で雷が弾けたみたいに、頭が白くなる。
互いに利用し合うだけの取引だと思っていた。
なのに、彼が求めるものに――私自身まで含まれているなんて。
私の動揺を見て、藤原聡は口角をさらに上げる。
「もちろん、君が面倒を片付けてからだ」
椅子に凭れ、気怠げなのに圧のある姿勢で言った。
「追加条項だと思えばいい」
私は黙った。
ここまで来たら、引き返せない。
陸原紀川の偽善と計算より、藤原聡の直球のほうがよほど信用できる。少なくとも、野心を隠さない。
「……いいです」
私は最後に頷いた。
「受けます」
藤原聡が満足げに唇を吊り上げる。
クラブを出る頃には、外はもう暗かった。
私は車を走らせ、陸原家へ戻る。
母の遺したものと、私の私物だけを引き取り――ここで終わらせるつもりだった。一刀両断。二度と振り返らない。
屋敷は明るいのに、温度がない。
降り立った瞬間、その光がやけに冷たく感じた。
鍵を開けて中へ入る。リビングは無人。
ソファに投げ出されたままの、陸原園子のカシミヤのブランケットだけが目に刺さる。
足を止めず、そのまま二階へ。主寝室の扉を押し開ける。
部屋は、私が出ていったときのままだった。
ウォークインクローゼットから別のスーツケースを引っ張り出し、黙って荷造りを始める。私にとって意味のある宝飾と服だけ。
母が遺したサファイアのネックレスをケースへ収めた、その瞬間――
ドアが、予告もなく外から押し開けられた。
息が止まり、振り向く。
立っていたのは陸原紀川。顔色は泥みたいに暗く、今にも滴り落ちそうだった。
クラブで着ていたスーツは脱ぎ捨て、シャツ一枚。ネクタイは緩くぶら下がり、髪は乱れ、目は赤い。
会社へ行かず、ここで待っていたのだと一目で分かる。
「やっぱり戻ってきたな」
掠れた声で言い、怒りを押し殺しながら一歩、また一歩と近づいてくる。
私は返事をしない。ケースを閉め、スーツケースへ入れようとした。
「白原花!」
手首を乱暴に掴まれた。力が強すぎて、ようやく消えかけていた赤い痕がまた疼く。
「もうやめろ!」
滑稽で、笑える。
私は冷たく見上げた。
「陸原紀川。あなたが私に『出ていけ』って言ったの、忘れたの?」
「口が滑っただけだ!」
一瞬だけ顔がこわばり、すぐ声を荒げる。
「今日クラブで何があった。藤原聡と……お前、あいつで俺に仕返しするつもりか?」
彼は私の顔に、『愛憎』の痕跡を探している。
――でも、何もない。
「関係ないわ」
私の瞳に残っているのは、氷みたいな嫌悪だけ。
「彼とは何もない。でも、私たちは終わり。手を離して」
「終わり?」
その二文字が刺さったみたいに、陸原紀川の顔が歪む。
離すどころか、私をぐいと引き寄せ、影の中へ閉じ込めた。
かつて好きだった顔は、嫉妬と怒りでねじれている。
「俺は認めない!」
低く唸る。
「白原花、お前は俺のものだ。離れるな!」
声がふっと甘くなる。偽物の優しさで頬に触れようとする手。
「怒ってるんだろ。悪かった。戻ってくれたら、これからはお前の言う通りにする。陸原園子は出してやる。昔みたいに……な?」
吐き気がした。
私は顔を逸らし、彼の背後のベッドへ視線を落とす。
声は氷のまま。
「陸原紀川。私が戻ったのは、私のものを取りに来ただけ」
一語ずつ、はっきりと。
「ここにいると……気分が悪い」
力任せに手を振り払い、スーツケースを掴んで扉へ向かう。振り返らない。
陸原紀川が、その場に固まった。
血の気がすっと引き、暴怒が一瞬で慌てに変わる。
「白原花!」
追いかけてきて、また前に立ち塞がった。
声に、本人も気づいていない懇願が滲む。
「やめろ……な?」
私は彼を見る。
慌て、怒り、そして卑屈な縋り。――怖いのだ。金づるを失うのが。作り上げた贅沢が崩れるのが。
まだ、資産の移し替えは終わっていない。
ここで完全に決裂すれば、追い詰められた連中は何をするか分からない。
時間が必要。
そして、陸原家に『妻』として居座り、正当に取り返すための理由が要る。
胸の底の冷気を、理性で押し潰す。
決然とした表情をゆっくり剥がし、疲れ切った無感情へ塗り替えた。
睫毛を伏せ、掠れた声を落とす。
「……疲れたの」
わざと少しだけ揺らぎを見せる。
「どう信じればいいの? あなたと陸原園子……」
その瞬間、陸原紀川の顔がぱっと変わった。救いの綱に縋りつくみたいに。
「そこは心配するな!」
焦って言葉を重ねる。
「俺が片付ける! 園子は出す。もしくは海外で療養させる。とにかく、もう俺たちの邪魔はさせない」
陸原園子を、物みたいに切り捨てる口ぶり。
――これが、この男の『愛』。私にも、彼女にも、安い。
