第1章
メイクアップトレーラーは安っぽいラテックスの匂いが充満していた。私はマスクを着け、震える手で俳優の顔に慎重に血糊を塗っていく。
「絵里、急げ! 時は金なりだ!」外から聞こえる監督の怒声には、焦りが滲んでいた。
筆先が微かに震える。またしても倒産寸前のプロダクション。今月で三本目だ。
「すみません、もうすぐ終わります」と小声で返し、ゾンビメイクに集中する。一筆たりとも失敗は許されない。撮り直しになればそれだけ材料費がかさみ、この苦しいインディーズのホラー映画にそんな余裕はなかった。
俳優は目を閉じ、されるがままになっている。彼が座る椅子は軋み、頭上の蛍光灯はチカチカと不規則に点滅していた。ここにある全てが、自分の人生がいかに惨めかを思い知らせてくるようだった。
今月の稼ぎはいくらになるだろう? 頭の中で雀の涙ほどの収入を計算する。家賃、光熱費、車の保険料……残ったお金じゃ、ろくなメイク道具一式も買えやしない。
また監督の愚痴が聞こえてきた。「予算が厳しすぎる。出資者が現れなきゃ、撮影中止も考えないとな」
一瞬、手が止まる。撮影中止は収入がなくなることを意味し、収入がなくなれば……その先を考えるのは怖かった。
でも、選り好みできる立場じゃない。これが現実なのだ。
二十五歳、フリーランスの特殊効果メイクアップアーティスト。いつまで経っても末端の仕事ばかりで、おんぼろの撮影現場で糊口をしのぐ毎日を送っている。
「終わりました」私は一歩下がって仕上がりを確認する。俳優は目を開け、鏡に映る自分を見て頷いた。少なくとも、技術面でがっかりさせたことは一度もなかった。
「休憩室で待ってて。もうすぐ撮影始めるから」俳優が去っていく中、私は道具を片付けた。
トレーラーは静まり返った。手袋を脱ぎ捨て、疲れ果てて椅子に深く沈み込む。外ではスタッフたちが雑談しながら煙草を吸っているが、誰も私を輪に誘おうとはしない。
まあ、いい。元々人付き合いは得意じゃなかった。
休憩室には私以外誰もいなかった。使い古されたソファ、数脚のぐらついた椅子、そしてテーブルには時代遅れの雑誌が散らばっている。
時間を潰すために、一冊を手に取った。表紙には、人間離れした完璧な顔立ちのスーパーモデルが写っている。ページをめくると、高級品の広告や、手の届かないファッションコンテンツが並んでいた。
その時、ある名前が目に飛び込んできた。
土方悟。
心臓が、どきりと跳ねた。
『レンズ越しの美!新進気鋭の写真家、土方悟独占インタビュー』
息を呑み、何か大切なものに触れるかのように、そっと特集ページをめくった。
何ページにもわたって、彼の特集が組まれていた。国際的に有名な写真家として、ヴォーグやハーパーズ バザーを渡り歩き、クライアントにはシャネルやディオールが名を連ねる。写真に写る彼のガラススタジオは渚ヶ丘の崖の上にあり、三方を海に囲まれていた。まるで芸術の宮殿のように豪華だ。
七年。彼は、こんなにも輝かしい存在になっていた。
それなのに私は、今もこんな老朽化した撮影現場で、数万円のことで頭を悩ませている。
彼との距離は、開くばかりだ。
その時、引用文が目に留まった。
『最も美しい顔とは、完璧さではなく、その瞳を通して輝く魂の光だ。それを教えてくれたのは、一人の少女だった。本当の美は、思いがけない場所に隠れていると、彼女が教えてくれたんだ』
手が震え始めた。
一人の、少女か。
まさか、私のこと?
いや、ありえない。今の彼の地位なら、周りは美しい女性で溢れているはずだ。完璧なモデルとか、優雅な芸術家とか……。
でも、どうしても八年前のあの日の午後を思い出してしまう。
高校三年生の、放課後の誰もいない教室。一人でスケッチの練習をしていたら、足音が聞こえた。
「まだ帰らないの?」
顔を上げると、悟がいた。夕陽が窓から差し込み、彼の顔を暖かな光で照らしている。
「うん、もう終わるところ」慌てて画材を片付けていたら、うっかり水入れを倒してしまった。
彼が片付けを手伝いに来てくれて、ふと動きを止めた。
「これって……俺?」
そこに描かれていたのは、授業中に集中している彼の横顔。現場を押さえられて、穴があったら入りたい気分だった。
「ご、ごめん……」
「すごく上手いね」彼はその絵を手に取り、真剣な眼差しで見つめた。「君の目は特別だ。他の人が見逃すような美しさを見つけられる」
その瞬間、完全に心を奪われた。いや、もしかしたらもっと前からだったのかもしれない。
でも、彼に告げることなんてなかった。そんな勇気、あるはずもなかった。
今や彼は世界的に評価される写真家で、私は相変わらず顔に傷だらけの気弱な少女のまま。
一人の少女が、それを教えてくれた。
何度もその一文を読み返す。指の震えが止まらない。彼の言う少女って……本当に私のことなの?
それとも、ただの自惚れ? 七年という時間は、多くのことを忘れさせるのに十分な長さだ。顔に傷のある少女のことなんて、尚更。
読み進めた。インタビュアーが尋ねる。「その少女について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
悟の答えはこうだった。「彼女は僕の永遠の創作のインスピレーションだ。でも、彼女の物語は、彼女自身が語るべきものだから」
涙が、こぼれそうになった。
これだけの年月が経っても、彼はまだ私のことを覚えていてくれたのだろうか?
私はもう一度、雑誌に載っている彼のスタジオの写真に目をやり、それから今いる自分の周りを見渡した。
彼は渚ヶ丘の崖の上でトップセレブを撮影し、私は場末の撮影現場で三流俳優に傷を描いている。彼は豪邸に住み、高級車を乗り回し、私は朝日町の小さなアパートを借りて、かろうじて動く中古車に乗っている。
今の彼が、階下に住んでいた貧しい少女のことなど、覚えているはずがあるだろうか?
自嘲気味に笑い、顔の傷に触れた。たとえ本当に覚えていてくれたとしても、それは同情からに過ぎないだろう。今、彼の周りにいるのは雑誌の表紙を飾るような完璧な女神たち。それに比べて私は……
雑誌を閉じ、休憩室の鏡の前に立った。マスクを外し、映る自分を見つめる。こめかみから頬にかけて伸びる傷跡は、今もはっきりと見て取れた。
十八年間。この傷は、もう十八年も私と共にある。
七歳の時の記憶は、恐ろしいほど鮮明だった。アルコールの匂い、父親の怒声、そして顔めがけて飛んできた熱湯の入った鍋。
それは事故ではなかった。またしても家庭内暴力が起きた後、隅で泣いている私を見た父からの「罰」だった。
「お前のせいだ、この厄介者が! お前がいなければ、お母さんはとっくに俺と離婚してただろう!」
痛みは二の次だった。それよりも辛かったのは、その後に続いた二年間もの地獄だ。九歳の時、母はようやく勇気を出し、父が酔いつぶれている隙に私を連れて逃げ出してくれた。
私たちは見知らぬ街に移り住み、親切な一家の階下の部屋を借りた。大家の奥さんは情け深い人で、私の傷を見ても、嫌悪ではなく憐れみの目を向けてくれた。
その家の二階には、私より一つ年上の悟という男の子が住んでいた。初めて会った時、彼はただ静かに私を見つめ、こう言った。「星が宿っているみたいね、君の瞳」
小学校から高校まで、私たちは同じ学校に通った。私をからかい、いじめてきた同級生たちが、不思議と手を引いていくようになった。ずっと後になって、彼が陰で私を守ってくれていたことを知った。
でも、この傷は常に私の印であり、呪いだった。
豪華な撮影スタジオで、美しいモデルやアシスタントに囲まれている今の悟を想像する。彼の世界はカメラのフラッシュとシャンパンと喝采で満ち溢れている。私の世界にあるのは、安っぽいラテックスの匂いと、いつまで経っても足りないお金だけ。
「まあ、忘れよう。美しい勘違いだったと思うことにしよう。私みたいな人間が、夢を見るなんておこがましい」
マスクをそっと着け直し、雑誌をテーブルの端に置いた。休憩時間が終わる。また、傷を描く仕事に戻らなければならない。
他人の顔に偽りの傷を作りながら、私の顔にある本当の傷は、誰にも愛してもらえない。それが私という人間なのだ。
もしかしたら……もしかしたら、彼の隣には今頃、私なんかよりずっと美しい人がいるのかもしれない。
最後にもう一度だけ、雑誌の表紙を見つめた。それから静かにページを閉じて、元の場所に戻した。
夢なんて、遠くから眺めているだけで十分だった。








