第1章

知り合って十年、結婚して三年。雪奈は、自分の夫が浮気をする男だなんて、これっぽっちも思ったことがなかった。

――今夜までは。

会員制クラブの個室。扉を開けた瞬間、胸の奥からこみ上げる笑みを抑えきれず、雪奈は声を弾ませた。

「あなた、誕生日おめでとう……」

けれど、小林凌輝の姿はない。

がらんとした部屋。長いテーブルの向こうに座っていたのは、女が一人だけだった。

顔立ちはどこか雪奈に似ていて、赤いドレスの雰囲気まで似ている。それなのに彼女のほうが、細くて白くて、肌も柔らかそうで――まるで雪奈をさらに磨き上げたようだった。

雪奈は目を見開く。

「白井桃奈……?」

「姉ちゃん、来たんだ」

白井桃奈は少しも驚いた様子を見せず、立ち上がると親しげに抱きついてきた。

「久しぶり。海外にいる間、ずっと会いたかったんだよ」

「……ここにいるなんて、思わなかった」

雪奈は反応が追いつかず、呆然と小さく返す。

忘れられるはずがない。白井桃奈が異国へ旅立ったあの日、空港で自分の頬を、容赦なく二度も平手打ちしたことを。

三年間、二人は一度も言葉を交わしていない。

「私ね、お義兄さんの誕生日を祝いに来たの」

白井桃奈は、まるで何もなかったみたいに小悪魔っぽく笑う。

「お義兄さんから聞いてないの?」

雪奈の胸の高鳴りは、じわじわと冷たい底へ沈んでいった。

「……聞いてない」

彼女は、ただ誕生日のことを言っているのだと思った。

だが次の言葉は、ためらいもなく喉元を切り裂いた。

「いつ離婚するの?」

耳を疑った。息が一気に浅くなる。

「……何、言ってるの?」

「へえ……凌輝兄、言ってないんだ」

白井桃奈は口元を押さえ、くすくす笑う。その無邪気さは、子どもの頃から何ひとつ変わっていない。

十年前も彼女は、こんなふうに笑って言った。

――姉ちゃん。お母さんが浮気相手でも、私は姉ちゃんのこと、本当の姉ちゃんだと思うよ。

二人は同じ母を持つだけの姉妹だった。

白井桃奈はスマホを取り出し、画面を雪奈の目の前に突き出す。

表示されているのはLIMEのトーク画面。右側が白井桃奈、左側のアイコンは小林凌輝。表示名は『あなた』。

やり取りは、終わる気配もなく延々続いていた。毎日の「おはよう」「おやすみ」。何気ない日常の共有。『ハニー』と甘える呼び方は惜しげもなく乱発され、十数時間に及ぶ通話履歴までずらりと並んでいる。

「私と凌輝兄、遠距離で一年以上付き合ってたの。やっと一緒になれるんだよ」

白井桃奈は軽い口調で、当然のように言い放つ。

「姉ちゃん、もう席を譲って」

雪奈は言葉が出なかった。頭がくらくらする。

それでも白井桃奈の声は、耳の奥へねっとり入り込んでくる。

「そもそも婚約は私と凌輝兄のものだったの。あの頃、私は治療で海外に行くしかなくて……姉ちゃんは代わりに嫁いだだけ」

「見てよ、自分のこと。田舎育ちで、ちゃんとした仕事もなくて、上流階級の話題なんて何ひとつ分からない。凌輝兄、言わなかった? 連れて歩けないって」

雪奈は足元が崩れ、椅子に倒れ込む。

胸の奥を何かで押し潰されて、息ができない。刺すような痛みで視界が暗くなる。

白井桃奈は見下ろしたまま続けた。

「三年も専業主婦やって、自分では凌輝兄の世話を完璧にしてるつもりだった? でもね、彼は別に必要としてないの。使用人でもできることだもん」

「今の自分、鏡見た? 体型は崩れて、服はダサくて、メイクも下手。凌輝兄に釣り合うわけないでしょ。彼は紳士だから、あなたを追い出したりはしない。でも、まさか本当に居座るつもり?」

言葉の刃が胸を抉る。雪奈は唇を動かしたが、反論が見つからない。涙だけは落とすまいと、奥歯をぎり、と噛みしめた。

結婚して三年。小林凌輝は、彼女に一度も触れなかった。

どこにも連れて行かなかった。

きつい言葉を浴びせたことはなくても――彼の心がそうなら、驚くことでもない。

「まだ恥を知ってるなら、自分から出ていけばいいの。惨めにならないようにね。姉ちゃん、自尊心ある人でしょ?」

白井桃奈は雪奈の手を握り、妙に真面目な口調で言う。

「私、ずっと姉ちゃんのこと本当の姉ちゃんだと思ってる。だから追い出される姿なんて見たくない。でも、私のものをいつまでも占領するのは違うよね?」

雪奈は、逃げ出した。

どうやって家へ帰ったのかも覚えていない。ただ玄関の鏡に映った、涙でぐしゃぐしゃの自分にぎょっとした。

三年間、黒と白と灰色しか着てこなかった。今日は初めて、上品な赤のロングドレスを買ったのに――白井桃奈の鮮やかで軽やかな、艶っぽいタイトドレスには、足元にも及ばない。

久しく化粧をしていなかったせいで手は鈍っているし、涙がファンデーションを筋だらけに流して、ひどい有様だ。

指で拭うと、むくんだ目の下に触れ、充血した疲れ目が覗く。

自分で見ても、目を背けたくなる。

ドレスを乱暴に脱ぎ捨て、バスルームへ。情けない化粧を洗い落とそうとした、そのとき思い出した。

小林凌輝へのプレゼントを、個室に置き忘れた。パテック・フィリップ。三年かけて貯めたお金を、ほとんど注ぎ込んで買ったものだ。気に入ってくれるだろうか。

――でも、もうどうでもいい。

白井家に引き取られたばかりの頃、初めて上流階級のパーティーに出た。慣れない場でおろおろする自分は、まるでみにくいアヒルの子。

うっかり前菜だと思い込み、皿の上の飾りを口に入れてしまった。

くすくすと笑い声が広がる。穴があったら入りたいと思った瞬間、小林凌輝が――まったく同じことをした。

嘲笑はぴたりと止まり、周囲の人間は皆、何事もなかったようにそれを真似した。

あの瞬間、雪奈は抗えずに堕ちた。

けれど小林凌輝は、京清市でも指折りの御曹司。ビジネス界の天才で、グループの後継者。

自分が釣り合うはずがなく、想いは胸の奥にしまい込むしかなかった。

彼が事故で数か月も昏睡し続けたとき、小林家は婚約を思い出し、白井桃奈を嫁がせて厄を払おうとした。

だが白井桃奈は持病が悪化し、海外療養へ。代わりに雪奈が嫁ぐことになった。

そして――厄払いは効いた。

雪奈の看病で小林凌輝は目を覚まし、健康を取り戻し、再びグループを掌握した。

そこへ白井桃奈が帰ってきた。

シャワーの下で温水に身を任せ、涙を洗い流す。

三年の「小林夫人」の暮らしは、盗んだもの。あれほど眩しい男は、本来彼女のものではない。

あのときの助け舟も、ただ彼が教養のある人間だったから。それ以上でもそれ以下でもない。

――夢は、覚めるべきだ。

風呂から出ると、小林凌輝が帰ってきていた。

腕にかけたスーツ。シャツ越しに浮かぶ引き締まった筋肉。彫りの深い顔立ちに欠点はなく、わずかに下がる眉尻が冷たさを帯びる。漆黒の瞳は水の底に沈む墨のようで、圧が強い。

雪奈は階段脇に立ったまま、反射的に彼の背後を探す。

白井桃奈と誕生日を過ごしたはずなのに、帰りが早い。

泣き尽くしたと思っていたのに、また目の奥が熱くなる。必死で堪えた。

いつもなら迎えに行き、上着を掛けて声をかける。けれど今日は動けない。何も言えない。

小林凌輝は彼女を一瞥した。

ほんのわずかな疑問――それより、いつもの冷淡さ。表情は動かない。

彼は常に淡々としている。こちらがどうであれ、同じだ。視線はすぐに外れ、彼女を長く見ることなど一度もない。

「……誕生日、おめでとう」

彼が階段を上がろうとしたとき、雪奈は震える声で言った。

足は止まらない。だが悲しみに気づいたのか、もう一度こちらを見る。眉間が寄り、不機嫌さが滲む。

雪奈が泣くのを堪えるとき、いつもこの顔をする。

「また機嫌悪いのか? わざと遅くなったわけじゃない。会社で急ぎの仕事があってな」

冷たい口調。けれど、話す速度だけが少し落ちる。それが彼なりの宥めだった。

「……違う」

喉が詰まり、必死に抑えても泣き声が混じる。

真実は目の前にあるのに、彼はまだ言い訳で面子を守ってくれる。最後まで紙一枚を破らない、その優しさが余計に惨めだった。

小林凌輝が長く息を吐く。

呆れと面倒臭さが混ざった溜息が、平手打ちみたいに頬に刺さる。

彼は自分から追い出さない。だからこそ――自分が居座れば、ただの重荷だ。

それは、あまりにも厚かましい。

階段を上がりきる寸前、雪奈は咄嗟に口を開いた。掠れた声が転がり落ちる。

「……あの、私、準備できた。何も要らない。いつ、手続きに行く?」

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