第10章
雪奈は、つい笑ってしまった。
今日のこの茶番――最初から、あの二人が仕組んだものだったのだろう。
離婚協議書にサインするという名目で彼女を喫茶店に呼び出し、そこへ記者を集めて逃げ場を塞ぐ。人前で恥をかかせ、白井桃奈に頭を下げさせるために……。
ここまで心が冷え切ると、最後にはもう何も感じなくなるらしい。
「謝るべきなのは、あなたたちのほうよ」
そのとき、白井桃奈がふらりと倒れた。
小林凌輝は慌てて彼女を横抱きにし、氷のような眼差しで雪奈を睨みつける。
「お前は本当に救いようがないな。桃奈に何かあったら、お前もただじゃ済まない」
そう吐き捨てると、白井桃奈を抱えたまま、大股で店を出ていった。
だが男が去った次の瞬間、雪奈は背後から誰かにどんと強く突き飛ばされた。
「ほんっと最低!」
「白井さんに何かあったら、この人、殺人犯じゃない!」
「何もなくても殺人未遂でしょ!」
不意を突かれた雪奈は、脇腹をテーブルの角にしたたか打ちつけた。
ずきん、と鋭い痛みが走る。目の前が真っ暗になり、くぐもった声を漏らしながら、その場に尻もちをつく。
耳元では、なおも罵声が飛び交っていた。
「何被害者ぶってるのよ。ただの身代わりのくせに! 小林社長が誰を好きかなんて、見れば分かるでしょ!」
雪奈はぎゅっと目を閉じ、どうにか感情を押し殺した。
そして再び顔を上げたとき、その綺麗な瞳からは、悲しみも弱さもきれいに消えていた。
テーブルに手をついて立ち上がると、冷え切った目で周囲を見渡す。続けてスマホを取り出し、録画を開始した。声は刃のように冷たい。
「続けなさいよ。傷害、違法な取り囲み、肖像権侵害――ここにいる全員まとめて、警察署で話をつけましょうか」
三年間、気弱な家政婦みたいな小林夫人を演じていたせいで、誰も知らなかったのだろう。
雪奈はもともと、そう簡単に踏みにじられる女ではない。
記者たちはスクープこそ欲しかったが、自分が警察沙汰に巻き込まれるのは御免だった。
雪奈が本気で録画を始めたのを見て、それ以上しつこく迫ることもできない。結局、皆ばつが悪そうに引き下がっていった。
最後に雪奈は、ぶつけて痛む腰を押さえながら床に落ちたバッグを拾い、タクシーをつかまえて小野朝香のマンションへ戻った。
これから先、小林凌輝とはもう二度と関わらない。
家に着くと、小野朝香がまだ帰っていないうちに、雪奈は急いでバスルームへ入った。顔を洗い、身なりを整え、ようやく気持ちが底まで沈んで静まったころ、彼女はバスルームを出る。
ベッドに腰を下ろし、ひとつ深く息を吸う。
それからスマホを手に取り、小林凌輝とのトーク画面を開いた。
『明日までにサインしないなら、訴訟に切り替える』
だが、それだけではまだ腹の虫が収まらない。
雪奈はわざともう一通打ち込んだ。
『あなたが本命と一緒になるのは勝手だけど、私が次を探す邪魔はしないで。みっともない男だと思わせないでよ』
打ち終えると、すぐに送信。
そのまま連絡先を、全部まとめてブロックした。
数分後、パソコンを開いたばかりのところで、スマホが鳴った。
手に取って見ると、送ってきたのは白井桃奈だった。
しかも、小林凌輝が彼女にお粥を食べさせている写真つきで。
背景には見覚えがある。小林凌輝の別荘だ。
『お義兄さんが作ってくれたお粥、本当においしいの。お姉ちゃんも食べたことある?』
『お姉ちゃんのベッド、すごく寝心地いいね。でもお義兄さんが、そのうち新しいのを買い直すって言ってたよ』
雪奈はスマホを握ったまま、ふっと鼻で笑った。
その画面を保存してから、スマホを脇へ放り投げる。もう相手にする気はなかった。
感情をどうにか片づけ、雪奈はパソコンの画面へ視線を戻す。何か別のことをして、気を紛らわせたかった。
メールを開いて仕事の整理でもしようか――そう思った矢先、ブラウザにニュースの通知が跳ねた。
『小林グループ傘下のジュエリーブランド、「暁」シリーズを発表 新鋭デザイナー白井桃奈に注目集まる』
その見出しを見た瞬間、雪奈の瞳がひゅっと縮む。
「暁」シリーズ――?
彼女は慌てて記事を開いた。
掲載されていたジュエリーの写真を見た途端、息が止まる。
間違いない。
これは、彼女の『暁』シリーズだ。
細部にはいくらか手が加えられている。だが全体の骨格は、雪奈が一から生み出したオリジナルそのものだった。
マウスを握る手が、かすかに震える。
こんな偶然があるはずがない。
何か月もかけて磨き上げた自分の心血が、どうして白井桃奈の作品になっているのか。
――次の瞬間、雪奈の脳裏にひらめく。
デザイン案。
あの夜、本当は取りに戻るつもりだった。自分のデザイン案を回収するために。
なのに、あの二人の関係を目の当たりにしてしまい、怒りのまま飛び出した。デザイン案は、そのまま置き去りだった――。
「っ……!」
ばたん、と勢いよくパソコンを閉じる。
雪奈は怒りで全身を震わせた。
夫を奪うだけでは足りず、今度は自分の作品まで盗むなんて。
小林凌輝の別荘に着くと、雪奈は電子ロックに暗証番号を打ち込んだ。
1回目――エラー。
2回目――エラー。
彼女は一瞬、動きを止めた。焦って数字を押し間違えたのだろうか、と。
そこで今度は、一桁ずつ確かめながら入力する。
だが3回目も――エラー。
どういうこと。
まさか、暗証番号を変えられた……?
「奥さま、お帰りなさいませ」
ドアを開けた使用人の森本は、雪奈の姿を見て一瞬ほっとしたように笑った。けれどすぐ、困ったように眉を寄せる。
雪奈が鍵に視線を落としたまま入ろうとしないのを見て、森本は唇をきゅっと結び、小声で告げた。
「若様が暗証番号を変更なさいました。……桃奈様のお誕生日です」
別に、おかしなことじゃない。
ここはもう、彼女の家ではないのだから。
雪奈は小さく相槌を打つだけで、別荘の中へ足を踏み入れた。
リビングでは、白井桃奈がソファに身を丸め、テレビを見ていた。
しかも身に着けているのは、雪奈がこの別荘に置いていったシルクのネグリジェだった。
小林凌輝の金で買ったものだから、もう要らない。そう思って置いてきたものだ。
それが今、白井桃奈の肌の上にある。
来客に気づいた白井桃奈は、甘ったるい笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん? どうしたの、急に」
雪奈は彼女を見もしない。
そのまままっすぐ階段へ向かう。
「お姉ちゃん!」
白井桃奈は慌てて立ち上がり、行く手を塞いだ。
「凌輝お兄ちゃんは今いないよ。何かあるなら、私に言ってくれても――」
まるで、自分がこの家の女主人だと言わんばかりの口ぶり。
「どいて」
雪奈は彼女を冷ややかに一瞥し、凍った声で言った。
「お姉ちゃん、そんな怖い顔しないでよ」
白井桃奈は無垢なふりをして目をしばたたかせる。
「私がここにいるのが嫌なのは分かるけど、凌輝お兄ちゃんがここにいろって言ったの。私だって困ってるんだから……」
そこで雪奈は、ようやく振り返った。
その唇に浮かんだのは、冷えた嘲りの笑みだった。
「私のネグリジェを着て、私の男を使って、その上、私のデザイン画まで盗んで――白井桃奈、あなたにできないことってまだあるの?」
白井桃奈の顔がぴくりと強張る。
だがすぐに唇を噛み、いかにも傷ついたような顔を作った。
「お姉ちゃん、何言ってるの? デザイン画って何のこと? 私、全然分からないんだけど」
