第6章
小林凌輝は怒りに燃えた目で顔を上げた。だが少し離れた場所に立つ雪奈は、ただ冷めた目でその様子を見ているだけだった。
彼は冷たく言い放つ。
「お前の妹だぞ。体が弱いって分かっていながら、あんな嫌味ったらしいことを言うなんて……殺す気か?」
雪奈は、むしろ笑ってしまいそうだった。
この男の目には、いつだって白井桃奈だけがか弱く、守ってやるべき存在に映る。
そして自分は、何をしようが悪者だ。
弁解する気にもなれなかった。
小林凌輝は白井桃奈を抱き上げると、そのまま大股で立ち去っていく。
騒ぎを聞きつけてやって来た小野朝香が、ちょうど入れ違いに彼とすれ違った。
彼女はわざと聞こえるように、皮肉たっぷりの声を張る。
「雪奈、大丈夫? 小林凌輝ってクズ、あんたに何かしてない?」
もちろん、小林凌輝に聞かせるためだ。
「誰がクズだって? 死にてえのかよ」
そう吐き捨てたのは竹内悠一だった。
小野朝香と一緒に来たらしい。
「別にあんたのことなんか言ってないけど? 自分からクズ枠に入りに来たわけ?」
小野朝香は振り返ったものの、そこにもう小林凌輝の姿はない。だからその苛立ちを、そっくり“あいつの友達”へぶつけた。
「――あ、違うか。クズですらないね。ただの手先じゃん」
言い捨てると、彼女は雪奈の手を引いてその場を離れようとする。
そこへ、ショッピングモールのマネジャーが二人、慌てた様子で立ちはだかった。
正確に言えば、用があるのは雪奈に対してだった。
「雪奈さん、小林社長からのお話で……あなたにも病院へ来ていただきたいそうです」
雪奈が断るのを恐れたのか、もう一人の責任者が続ける。
「小林社長のお考えでは、雪奈さんには故意に危害を加えた疑いがあると……もし病院へ同行していただけない場合は、警察への通報も検討すると」
故意に危害を加えた――?
雪奈は呆れを通り越して、笑いそうになった。
平然と嘘を並べる。まさにあのクズ男女らしい。
小野朝香は顔色を変え、声を荒らげる。
「はあ? 浮気相手のために、自分の妻を警察沙汰にするって? 小林凌輝ってほんとに人間なの?」
二人のマネジャーは気まずそうに唇を引き結んだ。
どう取り繕っても、胸を張れる話ではない。
「私どもは、指示に従っているだけでして……」
すると竹内悠一が、背後のボディーガードに目配せしながら口を開く。
「義姉さんって呼んでるのは、あんたが凌輝の妻だからだ。でも分かってるだろ。凌輝が本当に好きなのは誰なのか」
彼は薄く笑った。
「病院には行くべきだよ。桃奈に、きちんと謝るためにもな」
そこまで言われたら、もう行かないわけにはいかなかった。
雪奈は小野朝香へ、心配いらないと告げるように視線を向ける。
「朝香、先に帰って。私は大丈夫」
もともと、自分と小林凌輝の揉め事に他人を巻き込むべきではないのだ。
……
病院のVIP病室。
白井桃奈はベッドに横たわっていた。顔は青白く、睫毛には涙の粒がまだ残っている。
「凌輝兄、ごめんなさい……また迷惑かけちゃった。お姉ちゃん、きっと今すごく怒ってるよね……」
「彼女の話はするな」
小林凌輝の声はやや硬かった。けれど、弱々しい白井桃奈の姿を見ているうちに表情を和らげ、声色も少しだけ優しくなる。
「検査で異常はなかった。感情が高ぶって気を失っただけだ。心臓にも問題はない。しばらく安静にしていろ」
白井桃奈は、ほっとしたように息をつく。
だが次の瞬間、何かを思い出したように眉を寄せ、遠慮がちに口を開いた。
「凌輝兄……お姉ちゃん、本当に離婚するの? でも、お姉ちゃんって何もできないし、仕事の経験もないでしょう? だったら、何か仕事を見つけてあげたらどうかな。お姉ちゃんの力じゃ高いお給料の仕事は難しいかもしれないけど……離婚したあとでも、せめて自分で生活できるように」
なんと気遣いに満ちた言い方だろう。
ついさっき自分を気絶するまで追い詰めた相手なのに、怒るどころか、あくまで雪奈の将来を案じている――そう見える。
ちょうどその時、病室の扉が開いた。
雪奈だった。
ノックはしない。入ってきても、二人を一瞥しただけで、何も言わずその場に立っている。
「妹を病院送りにしておいて、その態度か。ずいぶん偉くなったな」
小林凌輝は眉をひそめ、命令口調で告げた。
「桃奈に謝れ」
「私、何か謝るようなことした?」
雪奈は眉を上げる。
「見たところ、元気そうじゃない。故意傷害なんて重い罪を私にかぶせるほどじゃないでしょ」
小林凌輝の眉間に、さらに深い皺が刻まれる。
「お前、どうしてそんなふうになった。自分が悪いことをしても、認めようともしないのか」
認めようが認めまいが、結果は同じだ。
どうせ彼は、最初から罪を自分に着せるつもりなのだから。
耳元では、白井桃奈の甘ったるい取りなしの声が続いている。
雪奈は黙ってそれを聞きながら、口元の皮肉をいっそう濃くした。
「凌輝兄、そんな言い方しないで。お姉ちゃんは昔から私に優しかったし、今だってきっとつらいんだと思う……それに、私ほんとに怒ってないの。このことはお姉ちゃんのせいじゃなくて、ただ私の体が弱いだけだから……」
その時、不意に服の裾を引かれた。
「お姉ちゃん、もう凌輝兄と喧嘩しないで。ほんとは凌輝兄、お姉ちゃんのことだってちゃんと大事に思ってるんだよ。離婚したあと困らないようにって、会社に仕事まで用意してくれたの。凌輝兄みたいないい人、手放しちゃだめだよ」
なんとも誠実そうな顔で言う。
傍から見れば、本気で姉の幸せを願っているようにしか見えないだろう。
自分を寛容で出来た女に見せるためなら、こんな台詞まで平然と口にできる。
たいしたものだ。
雪奈は服の裾をそっと引き抜いた。断るより早く、小林凌輝が口を挟む。
「仕事は桃奈が頼んでやったものだ。明日の朝9時、人事部に行け」
相談ではない。
ただの通告だ。
しかも恩着せがましい施しつきで。
雪奈は彼の目をまっすぐ見返し、鼻で笑った。
「元夫の会社で働く趣味はないの」
小林凌輝の目の色が、わずかに沈む。
握った拳に、知らず力がこもった。
そんなに急いで、自分との関わりを断ち切りたいのか。
「小林グループに来ないなら、どこへ行くつもりだ」
一歩、前へ出る。
空気が重く沈んだ。
「お前に、もっとましな行き先でもあるのか?」
それとも、あの男のもとへでも転がり込むつもりか。
「私のことに、小林社長が口を出す必要はないわ」
雪奈はそれ以上付き合う気もなく、背を向けて歩き出そうとした。
「待て!」
小林凌輝は数歩で追いつき、その手首を乱暴に掴む。
そしてベッドの白井桃奈へ、短く言い捨てた。
「お前は休んでいろ」
そうしてそのまま、雪奈を引きずるようにして病室を出ていった。
「凌輝兄――」
白井桃奈が呼び止めても、彼は一度も振り返らない。
その目の奥を、嫉妬の色がかすめた。
けれどそれは、ほんの一瞬で消えた。
