第7章

車は一路、猛スピードで走り続け、彼女が三年間暮らしてきた別荘へと向かった。

雪奈は男に半ば引きずられるようにして、リビングへ連れ込まれる。

朝、出ていったばかりなのに。夜にはこうして連れ戻されるなんて。

「小林凌輝、もう離婚するんじゃなかったの!」

――いったい、いまさら何をするつもり?

小林凌輝はネクタイを緩め、冷えた眼差しで彼女を見た。理由もなく苛立ちが込み上げてくる。

「一日じゅう騒いで……もう十分だろ」

彼は距離を詰めてくる。雪奈の整った顔立ち、誇るように浮き立つ体のラインへと視線が滑り、瞳の奥でかすかな熱が揺れた。

「離婚協議書は、見なかったことにしてやる」

低く言い放ち、続ける。

「カードの金も使った。これで終わりだ。これからも、お前は小林夫人でいろ」

それは彼なりの「逃げ道」を与えたつもりだった。

雪奈は田舎育ちで、実家でも愛されてこなかった――彼の認識はそうだ。小林家を出れば、行き場は男に縋る以外にない。

どうせ頼るなら、他の男より自分のほうがいい。三年も小林夫人をやってきたのだ、今さら続けたところで変わらない。離婚して金のために身を切るような真似をされれば、面倒だし、自分の評判にも傷がつく。

それに――本気で離婚する気だとも思っていなかった。

気を引くための芝居、ただそれだけだと。

雪奈は一瞬きょとんとし、次の瞬間、聞いたこともない冗談をぶつけられたみたいに目を丸くした。

「面白いわね。さっきまで、あなたって本当に一途な人なのかもって思いかけたけど……いま何言ってるの?」

「私に小林夫人を続けろって? じゃあ、あなたの愛人はどうするの」

雪奈は笑いもせず、言葉を研いで突きつける。

「家に一人、外に一人。そういうのが“男の甲斐性”ってやつ? でも私は二人で一人の夫に仕える趣味、ないのよ!」

「でたらめを言うな!」

小林凌輝の怒気が跳ねる。

「勝手に決めつけるな!」

「どこが決めつけ?」雪奈は容赦しなかった。

「結婚して三年。あなたが目を覚ましてからも、もうすぐ一年。私はただ家に置かれてるだけの妻。触れたこと、ある? あなたの心の中にいるのは誰? いちいち言わせたい?」

「私が久しぶりにちゃんと身なりを整えたら、今度は『綺麗な飾り』として置いておきたいってわけ?」

小林凌輝は黒い瞳を細め、じっと彼女を射抜く。次の瞬間、ぐっと踏み込み――その視線はさっきよりも危うく、怖い。

高い影が落ちる。濃い男の気配が、息を奪うほどに迫ってきた。

「つまりお前は、ここまで大騒ぎして……離婚だの、見た目を変えるだの。挙げ句、男まで探して俺を苛つかせて……」

彼は雪奈をソファへ押し倒すように抑え込み、顔を寄せる。熱い吐息が首筋に散り、雪奈の背がぞくりと粟立った。

声は低く、危険で――妙に甘い。

「結局、欲しいのは子どもか?」

「俺に触れてほしい。それだけだろ?」

雪奈は固まったまま、ぱちぱちと瞬きをする。目の前にあるのは、近すぎる彼の顔。

――子ども? 触れてほしい?

……今まであれだけ言ったのに、都合のいいところだけ拾ったの?

雪奈が顔を背け、両手で彼の硬い胸を押し返そうとした。

だが次の瞬間、細長い指がふわりと彼女の頬に触れ、すべるように撫でる。柔らかな肌を確かめるような指先。

その眼は暗く深く、獲物を見据える獣みたいだった。

「それだけが欲しいなら……」

さらに声を落とし、囁く。

「くれてやる」

唇がゆっくり近づく。ひやりとした感触が頬をかすめ、雪奈は思わず震えた。

もう片方の手は、白くまっすぐな太腿を遠慮なく這い、熱を帯びていく。

雪奈の頭が一瞬、真っ白になる。心臓が暴れ、喉が鳴った。

――本気で? 私と子どもを作る気?

白井桃奈が好きなんじゃないの……?

私を、何だと思ってるの?

「今日、そんな格好をしてるのは俺を誘ってるからだろ」

小林凌輝は、決めつけるように言った。

「欲しいなら、子どもを一人やる」

唇が落ちてくる、その寸前――

けたたましい着信音が、張り詰めた空気を真っ二つに裂いた。

小林凌輝の動きが、ぴたりと止まる。彼は雪奈の上から身を引き、スマホの表示を一瞥すると、そのまま立ち上がった。

白井桃奈からの電話。

雪奈にも、それが見えた。

雪奈は身を起こし、視線をドレッサーのフォトフレームへ落とす。

小林凌輝が二年間昏睡し、目を覚まして一年。祖父は、雪奈が「未亡人になるかもしれない危険」を背負って嫁いだことをずっと気にしていて、凌輝が意識を取り戻したあと、改めて結婚式を挙げさせた。

雪奈もウェディングフォトを撮ろうと言った。けれど彼は「忙しい」の一言で退けた。

その写真は、補った結婚式の日に撮った――たった一枚の記念だった。

雪奈はそれを、床へ叩きつけた。

がしゃん、と乾いた音。ガラスが飛び散る。

そのまま扉を乱暴に閉め、出ていく。

――さっき、私は本当に揺らいだ。

馬鹿みたいに。

この男に、期待なんてしちゃいけない。最初から。

小林凌輝が病院へ駆けつけると、白井桃奈はベッドにもたれ、肩を小刻みに震わせていた。

彼はベッド脇に腰を下ろし、大きな手で彼女の手の甲を覆う。

白井桃奈はその手をきつく握り返し、縋るように言った。

「凌輝兄、退院したいの。家に誰もいなくても……病院にいるよりまし」

整った小さな顔を見つめ、小林凌輝はしばし沈黙した。

病室へ入る前、医師には確認している。大事には至っていない。数日静養すれば十分だ。

退院自体は問題ない――ただ、両親が家にいないとなると、万一のとき誰にも気づかれない。

「うちに来い」

小林凌輝は低く言った。

「使用人がいる。面倒は見られる」

一通り手続きを済ませて帰宅すると、小林凌輝は思い知らされる。

――雪奈が、本当にいなくなっていた。

使用人が顔色を窺いながら、小声で報告する。

「奥さまは……若様がお出かけになったあと……お荷物を持って出ていかれました」

白井桃奈が不安げに声を落とす。

「姉ちゃん、私のこと怒ってるんだ……私、やっぱり帰るね」

「考えすぎるな」

小林凌輝は疲れを滲ませたまま言う。

「先に休め。明日、話す」

自室へ戻ると、床にフォトフレームが落ちていた。

ガラスは粉々で、きらきら散っている。

――まだ何を望む?

あの女は。

秘書からメッセージが届く。明朝、重要な国際ビデオ会議があるというリマインド。

小林凌輝は気持ちを押さえ込み、書斎へ向かった。だが、どうしても集中できなかった。

翌朝9時。会議は定刻どおり始まる。

「小林さん、ぜひ申し上げたい。奥さまの最新作『暁のダンス』は、完璧と言っていい出来でした」

――雪奈の、作品?

画面の向こうにいるのはデザイン協会の審査団代表だ。どうして雪奈のことを知っている?

そもそも、雪奈がデザインを――彼は一度だって聞いたことがない。

小林凌輝はいつもの冷静さを崩さず、指先で机を軽く叩いた。

「過分なお言葉です。今回の提携について、協会として具体的なご希望は?」

「ぜひ奥さまと長期的なパートナーシップを結びたいのです」

ジョンは熱を帯びた声で続ける。

「さらに、次回のパリ・デザインウィークへ、奥さまをご招待したいと考えております」

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