第1章

ミシシッピの密林奥深く――地図にも載らない無人地帯。毒虫や蛇、蟻が岩穴を埋め尽くすその洞の最奥に、途方もない地下牢が隠されていた。外は重武装の兵が固め、ハエ一匹すら入り込めない。

幾重にも重なる鉄扉が、陰気な冷気を吐き出している。扉の向こうは牢房。湿った壁には監視カメラが百台以上、狂ったように取り付けられていた。

――監視されているのは、たった一人の少女。

監視室。上級の傭兵が大型モニターをにらみ、内線電話越しに弾んだ声を上げる。

「ボス! 新型毒薬DK33が効きました! モニター上の血羽、意識がもうろうとしてます! 今が最高のチャンスです!!」

電話の向こうの男は、冷え切った通路を歩きながら口角を歪めた。

「DK33を倍量だ。……今日はどう足掻いても、俺の手のひらから逃げられん」

物音に、少女がゆっくり顔を上げた。漆黒の長髪には、おぞましい血がべっとりとこびりついている。全身には錐骨釘が打ち込まれ、手筋も足筋も断たれていた。

DK33の毒が回り、骨の内側から蝕む痛みがのたうつ。それでも彼女は一言も呻かず、氷のような眼差しで来訪者を見据える。

「……やっぱり、あんたか」

「組織を裏切って、偽情報で俺を騙したな!?」

「そうだけど? 瞑流なんて地獄、人が居る場所じゃない。あんたに一生踏みつけられて生きるなんて、ごめんだわ」

瞑流――国際最高峰の諜報組織。

そしてこの少女こそ、その瞑流で名を聞けば震え上がるS級スパイ。コードネームは血羽。

……その血羽が、今は生け捕りにされている。

「くだらねえ口は後だ」

キラは毒の発作の時間を計ったように、陰笑を浮かべて近づき、血羽の喉を鷲掴みにした。

「血羽。苦しいか? 解毒剤が欲しいだろ?」

囁く声に、甘い誘いが混じる。

「アンゾフのパスワードデータを吐け。そうしたら今すぐ解毒剤をくれてやる」

アンゾフ――世界最大の海賊団が宝を隠した場所。侵入にはデータ列の鍵が必要で、それは異様に複雑で、卓越した計算能力と記憶力がなければ解けない。

そして、そのパスワードデータを知る者は今、血羽ただ一人。キラが成果を出すには、それを奪うしかなかった。

血羽は鼻で笑う。

「……あんたが?」

「下賤なB級スパイが、私からパスワードを奪えるとでも?」

「寝言は寝て言いな」

言い終えた瞬間。袖の奥に隠していた親指が、かちりと押し込まれる。

微小携帯の赤ランプが点滅――次いで、轟音が立て続けに炸裂し、地面がぐらりと揺れた。

「な、何だ!?」

キラが狼狽して後退する。

「バンッ!」

牢の扉が衝撃で弾け、炎に追われるように傭兵が飛び込んでくる。

「ボス! まずいです、地下牢の自衛システムが爆発――!」

「何だと!?」

「坑道が崩れま――あっ!!」

言い終える前に炎が男を呑み込み、瞬時に灰だけが舞った。

火勢が牢内へ雪崩れ込む。キラは恐怖に駆られ走り回り、血羽を指さして叫んだ。

「どうしてだ! お前……お前がやったのか! 何をした!?」

火舌が刑椅子の女を舐める。だが彼女はゆっくりと立ち上がり、逃げ惑うキラを見下ろした。

冷笑とともに、言い放つ。

「指が一本残ってりゃ充分よ。……あんたら、まとめて地獄に送ってやる」

ごうごうと燃え盛る炎の中、彼女はまるで地獄の悪魔だった。命を刈り取る命令を下すように。

「私が死ぬなら――全員、道連れよ!」

――

「バンッ!」

コップが机に叩きつけられ、耳障りな音が室内を裂いた。

「橘琳!」

「恥ってものがないのか!? 入学してから今まで、試験のたびに学年最下位! 頭が弱いのは百歩譲って理解するが、せめて道徳の底は守れ!」

「先週は同級生が、お前が同席をいじめたと告発した。今週は中間で堂々カンニングだ! 学校を舐めてるのか!?」

広い職員室に四人。腹の出た男は帝都高校の校長、中村だ。

唾を飛ばしながら、情けなさと怒りを滲ませて人を叱りつけている。

その隣には、上品に着飾った貴婦人。笑みを浮かべ、穏やかな口調で言った。

「中村校長、本当にご迷惑をおかけして申し訳ございません。うちの子は知能に問題があり、幼い頃から田舎で育って何も分からないんです。力だけはあるんですけれど……。帝都高校の校長先生が、どうか愚かな子と同じ土俵でお怒りになりませんように」

橘雪枝は背後で俯く娘を、憎々しげに一瞥する。横から誰かが相槌を打った。

「中村校長、落ち着いてください。姉は私の成績が妬ましくて、試験で私に勝ちたかったんです。でも馬鹿だから、ああいう手しか思いつかなくて」

「はあ……」中村がため息をつき、琳を指さす。

「橘琳、お前な……」

隅で頭を垂れていた血羽は、ぴーぴー喚く声に頭痛を覚え、罵声を返そうとして――不意に脳を槍で貫かれたような激痛に襲われた。

次の瞬間、自分のものではない記憶が、雪崩のように流れ込んでくる。

――これは……!

血羽は驚いて顔を上げ、書棚の外側にある反射ガラスを見た。そこには、見知らぬ蝋色の小さな顔が映っている。長いこと飢えていたかのように、栄養の欠けた顔。

頬の造りは小さく整い、本来なら美しいはずなのに、右頬の醜い傷痕がすべてを台無しにしていた。

血羽は呆然とする。

――転生? 高校生の身体に?

頭痛が消えぬまま、地底の爆発が脳裏にこびりつく。死の直前、毒が骨を溶かした痛みが、重く彼女に告げていた。

生き直したのなら、必ず復讐する――。

キラの力だけで、短期間に傭兵を集め、あの地下牢を築けるはずがない。まして骨釘の形状は異様に特殊だった。

あれは、裏に別の黒幕がいる。

ならば――今度こそ自分の手で引きずり出して、叩き潰す。

「琳! 校長先生が話しているのに、黙って何様だ!」

雪枝が怒りに任せて手を振り上げる。

だが頂点のスパイの反射は、身体に刻まれていた。血羽はすっと身をかわし、雪枝は空を切ってよろめき、そのまま頭から書棚に突っ込む。

「きゃっ!」

悲鳴で、血羽は現状に引き戻された。

琳の身体を使うなら、琳として生きるしかない。だが流れ込んだ記憶を見る限り、元の琳は酷い目に遭っていた。

琳は橘家の本来の令嬢。橘家は帝都でも数少ない貴族の一つ。

しかし出生時、病院で看護師が取り違え、琳は継父母に連れられて田舎で育った。半年前、ようやく橘家に見つかって戻ったばかり。

橘家の人間は彼女の顔と鈍さを嫌い、偽の令嬢・橘夢子と比べて「橘家の娘にふさわしくない」と切り捨てた。

体裁のために家に置きはしたが、外には「琳は私生児だ」と言い、夢子こそが本物の令嬢だと吹聴した。

戻ってからの琳は、身分も容姿も理由に散々いたぶられ、先頭に立っていたのが夢子。

――だが今、この身体にいるのは血羽だ。好きに屠られるつもりはない。

「琳、あなた狂ったの!? 昼日中に母親に手を上げようだなんて!」

夢子がわざと大声を上げる。中村は倒れた雪枝を支え起こし、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「カンニングに続いて、今度は母親にまで――琳!」

琳は、淡々と言った。

「私はカンニングしてない」

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